無意識さんとともに

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催眠!青春!オルタナティヴストーリー 150 それから

それから、ぼくたちの間には、距離が生まれたようだった、あるいはこう言ってもいい、接近して交わるかと思われたそれぞれの道がまた離れていくかのような。

塾で顔を合わせると、笑顔で「こんにちは」とか「元気」とかいう言葉を交わしたが、それ以上の会話をすることはなかった。

友達なんだからそれ以上の会話をしてもよかったはずだ。

よく思い出してみると、はまっち(ぼくは相変わらず、心の中でははまっちと呼んでいた)がぼくに話しかけたいようなそんな瞬間があった。

けれど、ぼくはこだわっていたのかもしれない。

何にどうこだわっていたのかはわからないが、ぼくはその瞬間をするりと手から逃した、手に止まった小鳥をそのまま飛び立たせるようなそんな真似を繰り返した。

はまっちははまっちで、浜崎さんという友達は、ぼくには全くの別人のように感じられたのかもしれない。

結局、ぼくは、塾でまた、はまっちの隣ではなく、左後ろの席で佐伯さんと一緒に座るようになった。

佐伯さんは、ぼくたちが別れたことを知っているのかどうか知らない。けれど、ぼくたちの距離感の変化でそれとなく察しているようだ。

『紗奈と呼んで』などと、ぼくに無茶なことを言ってくることはなくなった。

そうなれば、ずるいかもしれないが、佐伯さんはぼくにとって本当にありがたい友達だった、ぼくのような友達がいない者にとっては。

佐伯さんは、もう、ギャルのような格好も化粧もあれ以来、しなくなった。

喋り方もごく普通で、ある意味、佐伯さんもぼくには別人のように思える。

文芸部でも、前は佐伯さんは他の女子ふたりと話すことはなかったが、今では普通に会話をしている。

帰りは相変わらず、ぼくと一緒に帰っているが、なんだか心地よい距離感だった。

「春休みが終わったら、もう中3になるんだね、上地君」

「そうだなあ」

「上地君は、受ける学校決めてるの?」

「ぼくは、できれば、神楽坂さんの行っているところを考えてるよ」

別に神楽坂さんがいるからというのではなく、あの自由な校風には憧れる。

「私は、都立〇〇かなあ」

前の佐伯さんなら、一も二もなく、ぼくと同じところに行くと言うところなのだが。

「そうか、最近、勉強がんばっているよね、佐伯さん」

佐伯さんは塾でも熱心に授業を聞いている、学校でも悪い噂は聞かれなくなっていた。

「なんだか勉強がおもしろくなって。神楽坂さんの影響もあるかもしれない」

この頃、ぼく抜きでも、佐伯さんが神楽坂さんと会うようになっていることは知っていた。

「そうか、みんな大人になっていくんだね」

「みんな?」

「そう、みんな」

「上地君もね」

そう言われて、ぼくは足元の石を思い切り足で蹴った。

「心に聞く」ステップバイステップ1−2

支配者また邪魔する人の支配と排除は、欲張らない。

最初は、心が支配者また邪魔する人だと教えてくれた人、ひとりだけに集中して構わない。

そして、「邪魔を排除したよ」という声が聞こえなくても、集中してある期間行えば、「ネットワークの切断」や「PYYの還元」も併用しつつ行えば、ある日、心と体がふっと軽くなった感じがするかもしれない。

そうしたら、また、心が教えてくれる次の支配者また邪魔する人に移る。

そうやって続けていけば、「邪魔を排除したよ」と声が聞こえるようになるだろう。

支配者また邪魔する人と書いたが、支配したり邪魔したりする人が、みんな、生まれながらの支配者だとは限らない。直接の支配者もいれば、直接の支配者によって間接的な支配者にされた人もいる。

また、支配者でなくても、普通の人から支配と邪魔を受けることもある。

だから、心に聞いて、どんな人が頭に浮かぼうとも、尊敬する人や好きな人が頭に浮かぼうとも、気にせず、心に支配と邪魔の排除をお願いする。

そんなことを言ったら、ある人は、「自分も知らないうちに、他の人に支配と邪魔を及ぼしているのではないのですか?」と尋ねてきた。

結論から言ったら、そんなことは気にしなくていい。

そんなことを気にする人は100%、支配者ではない。

支配者でなくてもそういうことはありうるが、人はいいも悪いもお互いに影響し合って生きているのだから、そんなことは考えなくていいのである。

正確に言えば、自分が人からの支配と邪魔から自由になればなるほど、自分も人に支配と邪魔を及ぼすことから自由になるだろう。

だから、とりあえず、自分が人からの支配と邪魔から解放されることに専念していいのだ。

人間の3タイプ〜3−2 光の人に対する誤解

光の人は鏡だと言った。

私が光の人という言葉から連想するのは、ウルトラマンである。

ウルトラマンはM78星雲にある光の国からやってきた正義の味方である。

だから、光の人と聞くと、そういうウルトラマンのような完全無欠の正義の味方、超人のようなものを想像してしまう。

みんなが光の人になりたい、光の人に憧れるのも無理はない。

けれども、光の人は単なる鏡であって、光そのものではないと書いた。

それはどういうことかというと、光の人自身は、弱さも欠点も限界もある、罪さえあるただの人間ということである。

光の人は、決して超人でも聖人でもない。

光の人についてもう少し知っている人は、ウルトラマンではなく、イエス・キリストを思い浮かべるのかもしれない。

ところが、イエスでさえ、信仰者としてではなく、虚心坦懐に聖書を読むならば、ただの人間である(これはいくら強調しても強調しすぎることはない)。

喉が渇いて疲れることもあるし、怒った群衆に崖から落とされるそうになったり、物分かりの悪い弟子たちにイライラしたり、自分のために実をつけないイチジクの木を枯れさせたり、神殿で怒って両替人の台をひっくり返したり、十字架の上で「我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んだり…

それらからわかることは超人でも聖人でもない、まさに人間であるイエスの姿である。

さらに、光の人であれば、一切の支配としがらみから完全に脱却しているということもあり得ない。

エスは、荒野でサタン(試みるもの)に試され、試練を受け、それを退けたと思ったら、それで終わりではなく、ある時は、イエスを持ち上げようとしたペテロによって、イエスを王にしようとした群衆によって、イエスを裏切るユダによって、揺るがされ続けた。

もちろん、それらひとつひとつに理屈をつけようと思えばできるが、それらは単なる神聖化、理想化にすぎない。

光の人は単なる鏡である。鏡であるが、凹んでいたり、傷があったり、歪んでいるかもしれない。そうであっても、鏡は光を反射させることに意味があるのである。

鏡は光ではない。

聖人A 26 始まり

僕は、牧師見習いとして、教会で説教するようになった。

最初のうちは、説教する聖書の箇所を100回ぐらい、暗記するほど読み込み、註解書と呼ばれる聖書の参考書をたくさん牧師に貸してもらって研究し、ノートを作って、ガチガチに緊張して皆の前に立って、説教したが、

そのうち、話しているうちに、自分の心が熱くなって、口から自動的に言葉が出てくるようになった。

「皆さんは、ひとりひとり、神の愛する子、神の愛し子なのです。皆さんを愛するあまり、神は天にいて遠くから皆さんを見守っていることができずに、この全能の愛である神は皆さんと同じ人になろうと思い、全能の愛の力を持って皆さんと同じ人になられたのです。

想像できますか?

神が愛ゆえに、人になられたのです。

ただ、人になられたというばかりではない。

神は、私と同じ、みじめな罪人になられたのです。神を信じることができず、善をなそうと思っても悪を犯してやまない、まさにこの私になられたのです。

そして、この罪人である私となられた神ご自身は、本当は私がかけられるべき十字架にかけられて死に、それから3日後に復活されました。

私とひとつになって十字架にかけられて罪に死に、新しい命に生きて復活されたのです。

だから、私が今生きているのは、私が生きているのではない、人となられた神、イエス・キリストが私のうちに生きているのです。

聖書に書いてある通りです、『私はキリストと共に十字架につけられた、もはや生きているのは私ではない、キリストが私のうちに生きているのだ』と」

信徒たちは、僕の説教に涙した。牧師でさえも涙していた。特に、神谷先生を知っている年配の人たちは、号泣していた。

そして、僕の説教が終わると、僕を取り囲んで言った。

「ありがとう、ありがとう。神様、感謝します。この青年をあなたの純粋な福音を語るために送ってくださって、本当に感謝です」

「僕が語っているのではありません、僕と共に、僕の中にいてくださるイエス様が、いや、皆さんと共に、皆さんの中にいてくださるイエス様が、たまたま僕を通して語ってくださっているだけなのです」

そう言いながら、僕は、頭の中でたっちゃんのことを思い出していた。

みんなにそんなふうに扱われて、僕はいよいよ熱心になっていった。

高校では、最初、親切すぎる、いい人すぎるぐらいのいい人のポジションを得ていただけだったが、そのうち、学校の人間関係でもイエスのことを語り出すようになっていった。

催眠!青春!オルタナティヴストーリー 149 別れ

頭ではわかっているが、胸がしくしく痛み続ける。

ぼくたちは場所を変えて、パレードを見た。

座るところがなくて、縁石に座るしかない。ぼくは、はまっちのために、自分のハンカチをポケットから出して、縁石に敷いた。

「ここに座って、はまっち、じゃなくて浜崎さん」

「ありがとう、上地君」

『上地君』という言葉が心に突き刺さる。

「ほら、ハンカチの上を半分こずつして座ろうよ。上地君、もっともっとくっついて」

「そうだね」

そう言いながら、ぼくが動かないでいると、はまっちは距離を詰めてきて、体を密着させた。

はまっちの方を見ると、顔がすぐ近くにあって、息まで感じられる。

「…まつげ、とても長いんだね」

ぼくは浜崎さんという言葉がスムーズに出てこなかった。

「こんな近くで、そんなじっと見ないで、恥ずかしいから」

はまっちは顔を真っ赤にしている。そう、ぼくたちの体の距離は近い、でも心の距離はなんだかとても遠くなったような、そんな気がしてならないのは、ぼくが子どもだからなんだろうか?

すると、パレードはどんどん近づいてきて、目の前にやってきた。山車の上で、ミッキーとミニーが仲良く踊っている。

いっそ、ぼくもはまっちも大人になるのなんかはやめて、この夢の国で、ミッキーとミニーになって山車の上で永遠に仲良く離れずに踊っていたい、そんな気持ちに駆られた。

そんなことを思っていると、パレードはどんどん遠ざかっていく。音楽も小さくなっていく。

周りのカップルや親子連れも立ち上がってだんだんいなくなる。

ぼくたちは、なんだか、名残惜しくてそこに座ったままだった。

「そうだ、ミサンガまだつけてくれてるの?」

「つけてるよ、左足首に。ずいぶん、ぼろぼろになっちゃったけど」

「そっか、わたしのミサンガは切れちゃったんだ」

たちまち、心に黒雲が広がる。ぼくの表情を読み取ったのかどうか、はまっちは続けて言った。

「大丈夫よ。ミサンガが切れたということは願いがかなったということだから」

「願い?どんな願い?」

「内緒、いつか話すね」

はまっちはまっすぐ立てた人差し指を赤い唇に当てて、悪戯っぽく楽しそうに笑った。

唇が赤く艶やかなのは、リップでも塗っているのだろうか?

「上地君のミサンガはまだ切れていないんだね」

「うん、まだ切れそうにない」

「そう、どんな願い?」

「ぼくも内緒ということにしておくよ、まだミサンガも切れていないし」

「そうね、それがいいと思うわ」

はまっちはどこか遠くの方を見ているようだった、顔が茜色に輝いていた。時間は残酷にも過ぎて、夕陽がさしていた。

ぼくたちは、夢の国を出て、帰りの電車に乗った。

電車の中で、ぼくたちは疲れていたのか、それとも違う理由なのか、ほとんど話さなかった。

秋津駅で降りた。

ぼくはさらに電車、はまっちは徒歩で帰る。

「家まで送って行こうか?」

「大丈夫、近いから」

「そうだね、じゃあまたね、浜崎さん」

「また、塾でね、上地君」

そう言って、はまっちは改札口を出た。

後ろ髪ひかれる思いを振り切って、前に進もうとした時、後ろからはまっちの呼ぶ声が聞こえた。

「上地君!」

ぼくが振り返ると、はまっちは改札口のところに立ったままでいる。

「上地君、またね」

手をちぎれるばかりに振っている。ぼくも手を振りかえした。

「上地君、そうじゃない、うえっち、未来のいつかどこかで、またうえっちとはまっちに戻れるその日まで、さようなら」

はまっちの頬に涙が流れている。

「忘れないで、うえっち。うえっちのことが大好きだよ」

はまっちは大きな声で叫んだ。

「あの小屋で、心の小屋で、うえっちのことを待ってるから」

ぼくも泣きたかった。はまっちのところに引き返したかった。

はまっちはさらに手を振った、あの太陽のような笑顔で。

ぼくも精一杯の笑顔を返すと、向き直って、自分の道を歩き始めた。

 

「心に聞く」ステップバイステップ1−1

「心に聞く」には、まずは、焦らないことである。

心とは、無意識のことである。

無・意識なのだから、意識で捕まえられるようなものではない。

とにかく、大切なのは、1にも2にも3にも支配と邪魔の排除である。

これを飛ばして、心に聞こうとすると、支配者が心のふりをして語るということが起こることもある。

例えば、

「心よ、私とあなたの間に邪魔はありますか?」

「ありません」

「心よ、あなたは誰ですか?」

「あなたの心です」

「心よ、〇〇について私はどうしたらいいですか?」

「あなたができることは何もありません」

「心よ、私ができることは何もないんですか?」

「そうです、悪いのはあなたなんだから」

「心よ、どうしてそんなことを言うんですか?」

「私はあなたが嫌いです」

なんてふうに。

さらに、自分が特別な人になりたいと思っている人に、「あなたは光の人です」と言って自我を膨張させたり、「あの人があなたの結婚すべき人です」と言って混乱させたりしてくる(もちろん、心が、光の人と教えてくれたり、結婚する人を教えてくれたりすることはある。でも、それで舞い上がったり、混乱するようなら、心ではないのだ)。

だから、心の声を聞くことを目的にするのではなく、心に支配と邪魔の排除をしてもらうことを目的にするのである。

スモールステップの1番目は、

1「心よ、私の支配者は誰ですか?」または「心よ、私とあなたの間の邪魔は誰ですか?」

(声が聞こえなくても、浮かんできた人を支配者また邪魔する人だと思ってよい)

2「心よ、〇〇(支配者または邪魔する人の名前)の支配と邪魔を排除してください」

3「心よ、〇〇の支配と邪魔を排除したら教えてください」

である。

3で「支配と邪魔を排除したら教えてください」と言っているけれども、返事がなくても構わない。

毎朝、できたら起きてすぐ、ひたすら、この123をする。

他に時間があれば、123をする。

さらに余裕があれば、「ネットワークの切断」「PYYの還元」を唱える。

こうして、ある日、心から、「支配と邪魔を排除したよ」と自然に聞こえてくるまで、続けるのである。それは1ヶ月かもしれないし、3ヶ月、半年、1年かもしれない。

とにかく、無理に心の声を聞こうとせず、心に支配と邪魔を排除してもらうことをお願いすることが何より大切である。

 

 

人間の3タイプ〜1−2支配者の嫌う言葉

支配者は、深淵という言葉を嫌う。

どうしてかというと、理由は2つあるようだ。

1つめは、支配者は自分の深淵を決して覗こうとしない。覗こうとしないのは、支配者というものは支配することが本質であるから、深淵を覗くことができないのである。深淵がわからないから、破壊欲動とか性欲動もわからない。また、内省することはしないし、できない。

2つめは、深淵という言葉自体をできるだけ排除しようとする。なぜなら、人が自分の深淵を覗いて、破壊欲動と性欲動を見て、内省すると、深淵の中にうごめく支配者の支配を知って自由になってしまうからである。

だから、全力で深淵という言葉を貶めようとするのだ。

また、それ以上に、無意識という言葉も嫌がる。

正確に言うと、無意識というパワーについては支配者も語るかもしれない。

それは何を意味しているかというと、支配者が人を支配するのに利用できる魔法のようなパワーのことである。

あくまで、主体は支配者の私であって、無意識とは支配者の私が使うことのできるパワーである。

けれど、無意識さんを、本来の私、ありのままの私、もうひとりの私、私以上の私という意味では使いたがらない。

それは、支配者の私が自由にできないものだからである。

そういう意味の無意識を人が知ることは、支配者にがんじがらめにされた人が自由へと解放されていくことを意味する。

だから、無意識という言葉の意味をできるだけ矮小化する。

例えば、

「無意識はあなたのうちに眠る素晴らしいパワーです。私はそのパワーを開発する方法を知っているのです。私があなたに教える方法に従えば、あなたは無意識のパワーを開発して、有名になったり、お金持ちになったりすることができます」

けれど、無意識があなた以上のあなただとか、無意識に尋ねることが何よりも大切だとは口が裂けても言わないのだ。

支配者が教えるのは、無意識を利用する方法であって、無意識さんと親しくなることではない。

そこには、微妙に見えるが、天と地ほどの違いがあり、巧妙な罠が仕掛けられている。