B1
教会に通うようになって、私はキリスト教にのめり込んだ。小さな頃からの母との戦争状態、自分の内面のドロドロ、これらを解決してくれる救いがキリスト教にあると信じた。
新約聖書を絶えず持ち歩き、繰り返し繰り返し読んでいた。
牧師の説教は退屈だったので、無教会主義と言われる内村鑑三や矢内原忠雄の著作を読んで聖書を学んでいた。
そのうち、ルターの本に出会い、彼の、ダイナミズムに溢れた逆説的な言葉に強烈に惹かれるようになっていった。
ある日、家で讃美歌をテープで聞いていた。その日も私は憂鬱だった。
ただただ、布団に潜り込んでいた。あたりには、聖書やら注解書やらが散乱していた。
「我が罪過ち、限りもなけれど、底いも知られぬ恵みの御手もて…」
その瞬間思ったのは、
『自分がある特定の罪を犯したから罪人(つみびと)になったのではない、そうではなくて、頭のてっぺんから足の先まで徹底的に罪人なのだ、良いことをするにしてもそれはエゴからしているに過ぎない、それも白き罪なのだ…』
『しかし、そんな自分を救おうとする神の恵みは、私の罪よりも底が知られないほど深い』
曲が変わった。
「血潮滴る主のみかしら、棘に刺されし主のみかしら、悩みと恥にやつれし主を、我はかしこみ、君と仰ぐ。
主の苦しみは我がためなり、我は死ぬべき罪人なり…」
『私は死ぬべき罪人なのだ、しかし、キリストは十字架にかかって、私の罪を負って下さった、そのことによって、私は決定的に救われたのだ』
ふと外を見ると、小雨が降ってきた。
私は雨の中を飛び出して、『これは神が私に与えてくださった洗礼だ』と喜んだ。
次の日、私は牧師に報告しに行って、神が直接、洗礼を授けてくださったと告げた、牧師は訝しげに微笑んでいた。
激しく果てしもない喜びが噴き上げていた。
これで私は救われたと思った。
しかし、そういうわけにはいかなかった。