こないだ、朝早く目が覚めてしまって、もうどうしても眠れなかった。それで、iPadで映画でも見ようと思って探していた。
最近、「石子と羽男」というドラマがお気に入りで、出演している有村架純をいいなと思っていたので、おすすめに出ていた「フォルトゥナの瞳」を見てみた。
主人公は、20年前の飛行機墜落事故の生き残り、その当時の男の子は青年になって自動車整備の仕事をしている。
彼には、フォルトゥナの瞳と呼ばれる不思議な能力があって、死ぬ運命にある人の身体の一部が透けて見える。
携帯の修理のために入った携帯ショップで出会った女性に惹かれるが、その女性の手が透けて見えていた。
彼はその女性の運命を変えようとして、女性をカフェに呼び出し、本当は帰り際に工場の爆発で死ぬはずの女性の運命を変えるが、実はその代償が必要だった…
一応、ハッピーエンドを微かに期待して最後まで見たが、ハッピーエンドにはならなかった。
結局は、主人公が自分の命を犠牲にして、女性を、女性だけではなく他の人々を救うという話だった。
そして、そのことで観ているものを感動させ、涙を流させ、ある意味で洗脳するのだろう。
もちろん、私は一ミリも感動しも、涙を流しもしなかった。
こういう自己犠牲を美談とする物語が世の中には溢れているが、自己犠牲の物語=支配者の他者犠牲の物語でしかない。
そういう物語が美しいと思わされるところに、洗脳があり、支配者の支配があるのだろう。
つくづく、もうそういう自己犠牲の物語はいらない。私自身、どれだけそういう美味しい毒酒を飲んで生きてきたことだろうか。
自己犠牲になって、空っぽの自分を支配者に認めてもらうことで意味があるように思い込み、自分の人生ではなく支配者の人生を生きることほど馬鹿馬鹿しいことはない。
そんな人生はもう金輪際、ごめんこうむる。
自己犠牲の物語を打ち捨てて、自分だけの人生の物語を、どんなにつまらなく何もないように見える人生であっても、日々・創造して行きたい。