怒りを罪だと教える教えは、キリスト教の中にも仏教の中にもあり、宗教でなくてももういたるところに転がっている。
けれど、これは支配者が張り巡らす罠であり、巧妙な嘘であると思う。
支配者は支配されている人がどうなろうと何も感じないが、ただひとつ、人が怒りのエネルギーを利用して自分との絆を断ち切り、支配から逃れることを恐れている。もう支配できなくなるからだ。
怒りは唯一、支配の糸を断ち切ることのできる伝家の宝刀なのだ。
そして、これを使わせないために、支配者は全力で、『怒りは罪だ、毒だ』と吹き込んでくる。
その嘘を信じてしまった人は、怒りを自分に向けて自分を傷つけ、ついには死に至るまでボロボロにしていく。
まさに支配者の思う壺である。
怒りは両刃のつるぎでもある。
では、怒りを自分に向けず、支配者に、他人に向ければ良いかというと、怒りは他人に向ければ返す刀で自分を傷つけるのである。
「怒りは罪である」という嘘を吹き込まれた人は、自分に向けても他人に向けても支配者に向けても、ますます蜘蛛という支配者の網にもっと強く絡め取られ、罪意識で自分を破壊していく。
怒りは、ただ支配の糸を断ち切るために無意識さんが与えた力なのだ。
だから、無意識さんは、「怒りが罪である」ということが嘘であることを徹底的に照らし、明るみに出す。
そうして、私たちが支配者の支配を脱した時、
実は、「怒りは生きる力」そのものであったと知るのである。