無意識さんとともに

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2つの共感

その昔、EQ(感情指数)というのが流行っていて、転職の時にテストを受けさせられた。

私は、無事に転職できたのだが、後で上司にEQの分析シートを見せてもらうと、共感能力が以上なほど高かった。

私は、自分の共感能力が高いことをいいことだと思った。そして、「泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜びなさい」という愛の教えを実践できる素地が自分にあるのだと思ったのだ。

塾や予備校で教えていたから、私はいつも生徒のことを考えていた。そうして、自分が生徒ひとりひとりになりきって、生徒のためにと思い、無料で補習をバンバンやり、生徒を志望校に合格させたり、生徒の悩みに心身を擦り減らした。

けれど、そうやって、共感し、相手とひとつになり、相手をある意味、自分の中に取り込み、自己犠牲をして、自分というものを忘れ去って、相手の人生を生きていた私は、鬱になり、そういうあり方を捨てなければならなくなった。

そうして、もう自分軸で生きていこう、自分の人生を生きよう、共感なんて糞喰らえと思っていたところで、もう一度、共感に出会った。

自分軸で、自分の人生を自由に生きていこうとする時に、自分の深淵、自分の破壊欲動と性欲動(神になろうとする欲動)を見ることは避けられない。

そういう深淵を見ていく時、自分の破壊欲動と性欲動を知る時に、この深淵を通してのみ、同じ構造を持った他人の深淵も知ることになり、そこに共感が起こる。
それは、もはや、他人と一体化して、直接、他人の深淵を知るという共感ではない。

あくまで、自分の深淵を見ることによってのみ、間接的に他人の深淵を知るというところで、起こってくる共感である。
そういう共感は、他人と一体化しない、自己犠牲をすることもない。
「人のことはわからない、自分のことさえわからない」ということを越えることはない。この共感は、自分の深淵を通して、他人の深淵を間接的に知る、推測するものだからである。