無意識さんとともに

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孤独は自由の表れる場所

「あの子は貴族」という映画を見た。

お金持ち、そしてまたその上の階級の良家の人が、どんな気持ちで、どんな生活を送っているのか、普通の人と対比する形で描かれていた。

小さい頃、『ああ、お金持ちの家に生まれたらなあ』と思ったものだが、これを見ると、そんな気持ちが吹っ飛んでしまう。

お金持ちがお金持ちであり続けるために、良家が良家であり続けるために、どんな犠牲を払っているのかわかってしまうからだ。

それは、一言でいうと、自由のない支配の中に生きるということだ。

自由のない支配の中に生きるからこそ、お金と良家という誇りの中に守られる。

しかし、それは一種の牢獄であって、その中では自分の夢も未来もなく、決まりきった線路の上を事故を起こさないように歩み続けるだけのことである。

確かに、そこには、確固たる家族がいて、一体感はあり、孤独ではない。

けれど、干からびたミイラのように生きるしかないのだ。

O先生が、孤独の反対は支配であると言っていたが、また見方の方向を変えて、支配の反対が自由だとすれば、孤独こそ自由が実現できる場所だと言えるのかもしれない。
孤独というのは、誰とも付きわないということではない。相手と一対一では向き合うし、付き合うこともある。

けれど、集団の中に入って、自分がその中のどういう位置を占めるかに関心を集中し、誰にどう思われるかを気にし、集団の中にまた泡のように生まれるグループの一員として違うグループと敵対し、そういう集団またグループの役割を自分そのものだと思うのは、金輪際真っ平御免だと思って、支配の絆を切り離し、誇り高い狼として生きることなのだ。