無意識さんとともに

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聖人のアイデンティティから極悪人のアイデンティティへ

私の母親は、自分が誰よりも善人であると信じきってやまない人だった。

だから、近所の誰彼となく世話をしていたが、そうしながらも、家ではその人たちの悪口を言ってやまなかった。

私はそんな母親に育てられたが、彼女はネグレクトで過干渉だった。

よく覚えているが、母が私の足の上に、かなりの重さの箱を落とす。

思わず、「痛い!」と叫び声を上げる。

「どうして、そんなところに足を出しているの!」

母は逆ギレして言う。

だから、私は私の怒りを出すことができない。

それでも、時折、何かの拍子で自分の怒りを出すと、母は「気狂い」と罵ってくる。

私は、怒りを抑えるのが普通になった。

ただ、ものすごい圧力をかけられて、岩と岩がお互いを摩擦し合って、熱を帯び、高温になり、ついにはどろどろに溶けていくように、私の中には怒りのマグマが渦巻いているようになった。

そうして、自分という火山が噴き上げないために、永遠に休火山になって、ただ人に愛でられる富士山のような存在になるために、私はキリスト教になった。

その試みはうまくいくこともあった。もう、自分は何の怒りも持たない立派な聖人になったような気がした。

ところが、そんな時にこそ、母は試みてくる。

心に、爆弾を巧妙に投げ込んでくる。

そして、火山の噴火口を覆った厚い木の板をふきとばされて、怒りの黒煙を濛々と立ててしまう。

すると、母は目を輝かせて、「それ見たことか」と言ってくる。

私は、聖人から虫けらに落ちるのだった。

大嶋先生を知って、FAPを受けて、母の支配から脱して、そんなことはもう終わったのだと思っていた。

先週から今週にかけての臨床催眠の練習で、ある人に言われた。

「風宮さんって、スカートを履いている女の子の両足をつかんで振り回して、向こうに放り投げることをするよね」

それは、ある意味、褒め言葉として言ってくださったのだが、私の中にあるものを不思議と浮かび上がらせた。

親は、私の本名をある姓名判断の大家に頼んで、とにかく優しい子になるようにという希望でつけたらしい。

それは、親に対して、特に母親に対して、優しい子であるようにという願いだったが、私は知らぬ間にその願いに憑依されて、誰に対しても優しいいい子であろうとしてきた。
誰に何をされても、自動的に怒りを抑えて、「大丈夫ですよ。全然、気にしていませんよ」と言ってしまう。
自動的に抑えているのだから、自分でも怒りの存在に気づかない。
けれど、怒りは着実に溜まっていって、限界を越えて蓋を押し上げることになる。
ただ、自分の怒りを認められないから、怒りを実に持って回った卑怯なやり方で表すことになる。
例えば、小学2年生頃、いじめられたのだが、私は誰も見ていないところで、自分で自分の頬を腫れるほど殴って、先生に見せて「彼らがやった」と復讐する。

大人になると、哲学科で培った論理の刃を駆使して、言葉で相手の致命的な箇所をぐさっと刺す。

「そうやって、相手が怒ったら、どんな気分になるのですか?」

これも違う練習相手に言われたのだが、私は表面上は怒らない。むしろ、ますます、冷静に、冷酷になる。相手が怒れば怒るほど、私は『こいつ、馬鹿じゃないか』と馬鹿にし、暗殺者のように、後ろから相手の首筋に言葉の針を差し込むのである。

しかも、私は哲学科でも、社会に出ても、議論に負けたことがない。敵だと思われた人にさえ、ディベートの達人だと言われたことがある。

まさに、ここに私のプライドがある。

自分がひろゆきだとか、岡田斗司夫に何となく親近感を感じるのも無理はない。

同じことをやっているのだから。ただ、彼らは表立ってやっているが、私は聖人の仮面をつけて、裏で忍者のようにやっている。実に陰険である。
しかし、これは、実は、母親に自分がされていたことを、あんなに母親を嫌っていたのに、また自分が母親と同じことをやっているのだと気づいた。

そればかりではない。こういう怒りの隠れた発散と矛盾しているようだが、私はどんな違和感を持つ相手にも怒りを抑えて、『過度に親切にしなければ、人に嫌われてしまう』とも思っているようだ。

その結果、自己犠牲をして、相手をモンスター化してしまう。

過去には、モンスター化した相手にストーカーされたこともあった。
これは何なのかと考えてみると、どうやら、自分で自分を呪っているらしい。
怒りを時々、言葉の針で人を指すぐらいでは解消できなくて、自分という存在を破壊してしまいたい。

けれど、直接にはできなくて、人に過度に親切にしすぎることによって、人をモンスターに変えることで、その人に自分を破壊させることで、怒りから解放されることを望んでいたらしいのだ。
聖人になろうとした男が、自分が自己犠牲してモンスターになった相手にストーカーされ、最後に刺された瞬間、『ああ、これで自分は怒りから救われた』と呟くイメージが思い浮かぶ。
だが、これもまた母親がやっていたことかもしれない。

けれど、今、もう無意識さんによって、母親の支配から脱したのだから、私は聖人の仮面を脱ぎ捨て、ありのままの極悪人になろう。
違和感も怒りも抑えるまい。
未だ、自動的に違和感も怒りも抑えてしまうけれど、無意識さんは「待て」と言う。私は、骨が粉々に砕けた人が治ってリハビリするように、痛みの中をもがきながら、無意識さんの手に引かれながら、自分の違和感や怒りを感じようとする。
『ああ、だから、無意識さんは、フランシスという聖人の名前から風宮隼人に変えるようにいったんだ』

もう、嫌いな人は嫌いでいい、違和感を感じる時は感じる、怒りを感じる時は感じる、毒舌を吐く時は毒舌を吐く、ありのままの極悪人であっていいのだ。