虚無は光の人に憧れを持っている。反対に、光の人は虚無に憧れを持っている。
言い換えれば、普通の人は例外者に、例外者は普通の人に憧れを抱くということである。
普通の人の本質は、無である。
対して、光の人の本質は、鏡であらわされる。光の人の本質が光というわけではない。虚無の人は光の人の本質が光であると思って、光の人に憧れるのであるけれども。
人間の本質は、究極的には、虚無であろうと、光の人であろうと、無なのである。
そのことに変わりはない。
けれど、光の人が違うところがあるとしたら、光の人は光を反射させる無、つまり鏡なのである。
鏡自体は何ものでもない。
鏡自体は何かであるわけではない、そういう意味で、からっぽという意味の虚無とは異なっても、それも一種の無なのである。
鏡は何かを映し出すことによって、初めて何ものであるかのように見えるのである。
だがしかし、鏡自体は何ものかであるわけではないのだ。
そして、ブッダは自分が無であることを悟ったのだが、イエスは一般的に神と呼ばれる光そのものを映しだすことによって神の子と呼ばれるようになった。
人々は、イエスを光そのもの、神そのものであると崇めた。しかし、イエスは鏡であって、イエス自身は神そのものでも、光そのものでもない。
だから、鏡である光の人は、自分が光の人であると主張しない。
そこに映る光は、自分ではないのだから。
それだからこそ、イエスは自分が何ものであるかをいつも隠しておくように弟子たちに言ったのだ。
自分は、光の人であると主張する人たちは、光の人ではない。
なぜなら、そういう人たちは鏡の役割を果たさないから。
鏡は自分を透明にすることによって、光をそのままに反射することができる。
けれど、鏡が鏡の存在を主張しようとして、自分をそこに映すなら、そこに光は映らない。
そういう鏡は、実は、初めから鏡ではなかったのである。
自分を透明にすることは、何ものでもないことを選び取ることになる。
そういう意味で、何ものかではないのだから、孤独になることは免れないのかも知れない。
だから、光の人は、むしろ、多数の人と睦見合って暮らす虚無に憧れるのである。
光の人は、神を信仰する宗教と関係を持つとは限らない。
むしろ、光の人が宗教と関係するなら、大きな苦痛を味わうかも知れない。
なぜなら、光の人が照らし出す光は、多くの宗教家が神だと主張するもののが光ではなくかえって闇であり、救済者ではなくむしろ支配者であることを明らかにしてしまうからである。
イエスがそうされたのと同じように、宗教家たちは光の人を忌み嫌って排除しようとするかも知れない。
そのことを知っている光の人は、宗教とは関わろうとはしないだろう。
むしろ、孤独のうちに、ひっそりと佇む灯台として、凪いでいても荒れていても、昼間でも闇でも、淡々と光を照らし続けることだろう。