無意識さんとともに

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聖人A 26 始まり

僕は、牧師見習いとして、教会で説教するようになった。

最初のうちは、説教する聖書の箇所を100回ぐらい、暗記するほど読み込み、註解書と呼ばれる聖書の参考書をたくさん牧師に貸してもらって研究し、ノートを作って、ガチガチに緊張して皆の前に立って、説教したが、

そのうち、話しているうちに、自分の心が熱くなって、口から自動的に言葉が出てくるようになった。

「皆さんは、ひとりひとり、神の愛する子、神の愛し子なのです。皆さんを愛するあまり、神は天にいて遠くから皆さんを見守っていることができずに、この全能の愛である神は皆さんと同じ人になろうと思い、全能の愛の力を持って皆さんと同じ人になられたのです。

想像できますか?

神が愛ゆえに、人になられたのです。

ただ、人になられたというばかりではない。

神は、私と同じ、みじめな罪人になられたのです。神を信じることができず、善をなそうと思っても悪を犯してやまない、まさにこの私になられたのです。

そして、この罪人である私となられた神ご自身は、本当は私がかけられるべき十字架にかけられて死に、それから3日後に復活されました。

私とひとつになって十字架にかけられて罪に死に、新しい命に生きて復活されたのです。

だから、私が今生きているのは、私が生きているのではない、人となられた神、イエス・キリストが私のうちに生きているのです。

聖書に書いてある通りです、『私はキリストと共に十字架につけられた、もはや生きているのは私ではない、キリストが私のうちに生きているのだ』と」

信徒たちは、僕の説教に涙した。牧師でさえも涙していた。特に、神谷先生を知っている年配の人たちは、号泣していた。

そして、僕の説教が終わると、僕を取り囲んで言った。

「ありがとう、ありがとう。神様、感謝します。この青年をあなたの純粋な福音を語るために送ってくださって、本当に感謝です」

「僕が語っているのではありません、僕と共に、僕の中にいてくださるイエス様が、いや、皆さんと共に、皆さんの中にいてくださるイエス様が、たまたま僕を通して語ってくださっているだけなのです」

そう言いながら、僕は、頭の中でたっちゃんのことを思い出していた。

みんなにそんなふうに扱われて、僕はいよいよ熱心になっていった。

高校では、最初、親切すぎる、いい人すぎるぐらいのいい人のポジションを得ていただけだったが、そのうち、学校の人間関係でもイエスのことを語り出すようになっていった。