クリスチャンをやめた時、イエスはもはや信仰対象ではなくなった。
そして、イエスと自分の関係ももはや終わったのだと思った。
けれど、臨床催眠の練習をしていると、お相手の方が私がクリスチャンだったかを知ってか知らずか、イエスのイメージが出て来る。
ある時は、王冠を被ったライオン(C.S.ルイスのナルニア国物語に出て来るアスラン、イエスのメタファー)にユダである私が乗って、荒廃した地を緑豊かな大地に変えていくイメージ、
ある時は、妻と私をイエスが抱いているイメージ…
してみれば、そこには別の切っても切れない絆があるようだ。
ぶっちゃっけ、今の私はイエスは人間だと思う、しかも短気だったり欠点や時代や地域の限界も持っていたような人間だと思う。
けれど、ブッダと同じく、無意識さんの風に吹かれるままに生き、無意識さんに浸透され、無意識さんとひとつになったただの人間なのだ。
不幸なことに、弟子たちはイエスを神格化し、さらにキリスト教の骨格を作ったパウロは、「私はもはやイエスを人間的な標準で知ろうとは思いません」と言って、
人間イエスを封印し、神であるイエスキリストを誕生させた。それがキリスト教になった。
だからこそ、私はもはや自分をクリスチャンではなく、イエスチャンと呼ぶのだ。