無意識さんとともに

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催眠の現象学103 根源的なもの

人は、こうすれば必ずこうなるという教えや原則、公式みたいなものを求めやすいのかもしれません。

私の場合は、過去を振り返ると、それがキリスト教だったわけです。

全ての答えはもう聖書に示されていて、あとはその通り、聖書の言葉通りに従うかどうかといったことだったのです。

そうなると、自分で何かを感じたり、考えたりする必要はないのです。

もう、答えは決まっているのです。

自由な感覚も思考も封印されて、私は灰色の、聖書の命令をインプットされれば、それを忠実に果たすだけのロボットに必死になろうとしていた気がします。

ところが、キリスト教を卒業したとしても、そういう変わらない、何か絶対的なものを求める自分の性向は残っていたようです。

大嶋先生から学び、吉本先生から学び、ミルトン・エリクソンから学んでも、そこから公式のようなものを得ようとしていたことに気づきました。

もちろん、大嶋先生にしても、吉本先生にしても、エリクソンにしても、そんな公式のようなものを教えているわけではないのですが、

私は彼らの言ったことを公式化して、その公式化したものをそのまま遵守し実行することで、満足しようとしていたのです。

けれど、いくら表面的に言ったことをなぞったとしても、彼らの言っていることをメソッド化して、そのメソッドを収集してコレクションにしても、

それそのものを生み出す根源的なもの、無意識と繋がること、自分の感覚と思考を開いて本来の自分にかえること、時と状況と相手に応じて方法そのものを生み出していくことはできないのです。

彼らをモデリングするとしても、そのモデリングの根本的なことは、彼らが無意識と繋がっているその繋がり方を観察して、自分も無意識と深く繋がること、それがモデリングの目的であるのです。

静止した変わらないものを求めて、運動しているものの一瞬の姿を写真で捉えても、当の対象そのものは、どんどんと動いて変化して、また新たなものを生み出していくのです。

ところが、無意識に突き動かされて生き、動き、本来の姿へと変化していくことを真似て、自分も無意識に動かされて、生き、動き、変化していくならば、対象も違うように見えてくるのかもしれません。