小説 聖人A
それから、僕はまた長いこと眠っていたようだ。 目を覚ますと、右手にあの温もりを感じている。 今度は、首を回すことができて、そちらを見つめた。 髪をポニーテールにして、白いブラウスを着ている、色の浅黒い、目の大きな女性が、ベッドのそばの丸いすに…
駅の改札口を出て歩く。 延々と続く畑、そして豚小屋の匂い、何も変わることがなかった。 そして、もうすぐ、道を曲がったところに古い一軒家があるはずだ。 そう思って、道を曲がると、そこには何もなかった。 ただの更地になっていた。 更地には、枯れかか…
そんなふうにして、部屋に引きこもり続けた。 母も妹も、最初は、戸をどんどんと叩いて僕を部屋から引き摺り出そうとしたが、そのうち、もう諦めたようだった。 時折、布団から起き上がって、鏡を見てみると、気のせいなのか、それともリアルなのか、僕の顔…
それでも、僕は教会に行き続けた。 人に会うためではない、神様に会うためなのだ、僕はそんなふうに思っていた。 でも、僕は、Rさんが『あなたの言うことが正しかったわ、ごめんなさい』ということを、心のどこかで期待していたのかもしれない。 時々、Rさん…
母と妹は、あの赤い文字事件がいったん落ち着いた後も、僕の人間関係にピリピリするようになった。 「優、これは何なの?」 母と妹は、Rさんが僕にくれたトトロの置物と、さらに、Rさんが写っている写真を手にして言う。 「いや、何でもない。返して」 「返…
僕は、結局、何日も寝込んで起き上がることができなかった。 もうすべてが生き地獄のように感じた、何もかも。 そして、自分の人生が果てしもなく、神と悪魔が闘争を続ける戦場のように思われてならなかった。 こんなに苦しいのが人生なのだろうか? そのつ…
自分は何も悪いことはしていない、やましいことは何もない、そう思っても、もしかしたら知らない間に、相手をぐさりと傷つけるような致命的な罪を犯しているのかもしれないという思いが、ぐるぐると頭を離れない。 赦しの秘跡を受けて、告解して楽になろうと…
そんな頃だった。 僕が大学からの帰りに最寄りの駅の改札口を降りると、目の前にKさんがいた。 あのこと以来、Kさんと地元の教会で出くわすことはなくなっていた。 ミサの後の聖霊刷新の会でも姿を現さない。 それなのに、なぜ、今、ここにいるんだろう。 改…
夜が更けても、僕は喪黒福造の語る繁栄の福音とやらに煽られたのか、それとも単に枕がふだんと違うからなのか、なかなか眠れなかった。 寝ようとすればするほど、眠れなくなる。 そうしているうちに、ふだんは抑え込んでいるいろいろな思いや欲望が噴き上げ…
それから、僕はたがが外れたように、自分の衝動が抑えられなくなった。 僕はひとけのないところにRさんを連れて行き、キスをせがんだ。 彼女はその度に、僕をやさしく抱きしめ、僕が小鳥のように唇をついばむのを受け入れてくれた。 僕の背中をポンポンと叩…
その後も、Rさんは、少数の敵と多数のファンを作りながら、小さな世界で有名になっていった。彼女に祈ってくださいという人たちも増えてきているようだ。 反対に、僕を聖人扱いする人も、助けてほしいという人もだんだん減ってきた。 僕はお役御免になって、…
困ったことになったなと僕は思った。 キリスト教の世界にも、外の世界と同じく、競争がある。 けれど、外の世界とは逆転した競争で、信仰を競う競争である。 信仰と言っても、ストレートに信仰の強さを競うといったものではなく、『こんな大きな罪を犯した私…
僕とRさんが待ち合わせるのは、決まって、教会の御堂だった。 御堂の中心には、聖フランチェスコが街のはずれの崩壊した教会で見つけたという、裸のキリストが十字架にかけられているイコンが掲げられていた。 そこで、僕たちは、最初に1時間ばかり黙って祈…
それから、御堂で会うたびに、木製のベンチでRさんのために祈った。 Rさんは力のない弱々しい感じだったのに、だんだん、顔色もよく頬も薔薇色になってきたように見える。 「最近は、自分でも祈るんですが、聖霊様ってすごいですね」 「そうですね」 僕はち…
もちろん、Kさんのことがあってすぐだから、僕は、女性に対しては特に距離を置こうとした。 けれど、神様のお導きなのか、それともたまたまの偶然なのか、地元の教会に祈りに行くと、Rさんに顔を合わせるようになった。 もしかしたら、以前も顔を合わせてい…
駅構内のハンバーガーショップで、僕たちはお茶をした。 伊勢崎さんが待ち合わせたのは、Rさんという、伊勢崎さんと同じ25歳ぐらいの女性だった。 「こちらは、Rさん。可愛らしいでしょ」 伊勢崎さんは、頼んでもいないのに一方的に紹介してくる。Rさんは細…
家に帰ると、母と妹に検察官のように追求された。 もちろん、本当のことなど言えるはずもなく、僕は嘘をつかざるを得ないことに良心の呵責を感じた。 「お前は、私の期待を何度裏切ったら気が済むの?」 母はおそらく、僕がカトリックに改宗したことと今回の…
「ほら、私の顔を見て」 そう言われて、僕は下からKさんの顔を見つめた。 ファンデーションを落とした顔には、右目の下から頬にかけて、縦に、はっきりとわかる傷があった。 「これを見せたのはあなただけよ」 Kさんはほとんど泣きそうな顔になった。僕はそ…
Kさんは、コンビニで化粧落としやらコンタクトレンズの洗浄液などを買っている。 さすがに、僕も落ち着かない。 家には携帯で電話した。 「ちょっと、今日は帰れないから」 「どういうこと?」 妹はすごい勢いで聞いてくる。 僕は説明しようがなかったから、…
僕は慣れないことで、たじろいだが、マリア様に付き合うことを報告した後の誓いのキスのつもりなのかもしれない。 「外のベンチでもう少し話しましょ」 御堂の外にはさまざまな種類の木が植えてあって、そこには木製のベンチが置いてあった。 ちょっとひとめ…
僕は、ワインを一杯、飲んだだけで頭がぼうっとしてきたが、Kさんは次から次へと注いでくる。 僕も飲まざるを得なかった。そして、普段は聞き手のKさんが言葉を僕に浴びせてくる。 何でも、Kさんは良家の子女らしい。そして、代々のカトリックで、父も母も弟…
そうやって、地元の教会とそこのこじんまりした聖霊刷新のグループに通うようになると、人に注目され追っかけられることは少なくなった。 僕は、ますます、Kさんと仲良くなった。 そうして、ある日曜日、グループの帰り際に、Kさんが僕に言った。 「佐藤君も…
僕は二十歳になった。と言っても、何かがそんなに変わったわけではなかった。 大学では、相変わらずぼっちを決め込んでいた。まあ、哲学科というのはぼっちの集合体みたいなところだったから、そうであってもそれが普通だったので、僕にはありがたいところだ…
カトリックの聖霊刷新グループは、3分の2が女性だった。 僕は女性に追いかけられるということは、人生で経験したことがなかった。 僕の初恋は流花ちゃんで、ごく短い期間付き合ったのは松沢さんで、大学では男女を問わずほとんど誰とも話さなかった。 それな…
「あなたには、自分の使命に関する預言が与えられているはずです。立ってそのことを話してください」 アイザック神父は言う。 僕は、気が乗らなかったが、渋々立ち上がり、トロントで起きたこと、アンに与えられた自分に関する預言を話した。 すると、あろう…
僕は、3時50分に、あの40代の女性と校舎棟で待ち合わせた。 もうそこには、10人ぐらいの人たちがいたが、どう見ても学生には見えなかった。この集いに来た人たちなのだろう。 山田さんはその人たちの群れの中にいて、僕を見かけると、にっこり微笑んだ。 …
「失礼ですが、ちょっとよろしいでしょうか?」 僕は緊張で身を固くした。 「はい」 「私は、カトリックの聖霊刷新グループのものです」 「聖霊刷新?」 「新たな命を求めて、聖霊の新しい風を追い求める運動です」 そういうカリスマ的なグループがカトリッ…
「じゃあ、これでいよいよ、聖体拝領することができますよ」 主任神父はあっさり言った。 「よかったね、これで望みがかなうね、佐藤君」 大橋さんも、満面の笑みというのではないが、一応、笑顔を見せている。 I教会は大きな教会なので、ミサは1日に何回と…
最初は、生まれてからの自分の罪を紙にしたためようと思ったが、どうしてもまとまらない。 赦しの秘跡は、聴罪司祭として有名なK神父がすることになっていた。 時間になって、I教会の御堂の後ろに並ぶ。 どんなことをどこまで言おうかと、僕は悶々としたが、…
半年間、僕はI教会の午前のミサの後、大橋さんと教会の一室でカテキスムの勉強をした。その後、大概は大橋さんと食事をして別れる。 家と元いた教会では、結構、大変だった。 母親は根っからのプロテスタントなので、僕がおかしくなったと思ったらしい。 牧…