親も、その後、信じたキリスト教も、私に、自己犠牲を強いてきました。
親は子どもは親のために生きるべきだと教えることによって、キリスト教は人間は神のために自己を犠牲にすることが愛であり美しいものだと示すことによって。
だから、FAPや催眠を受けて、この自己犠牲から脱しようとした時に、重力に逆らって大気圏を突き抜けるロケットのように、自己犠牲と見えるものはすべて拒絶しようと思ったわけです。
思っただけではなく、自己犠牲と思われるものには吐き気さえ催しました。
その時、私が自己犠牲だと思ったものはどんなものかと言われれば、「人が自分以外の誰かのために、報酬を得ずに何かをすること」というかたちでした。
このかたちをとるものは、どんな関係、どんな状況において、自己犠牲だと思ったのです。
ところで、レイキというものを知った時に、五戒というものがあることを知りました。
そうして、その中に、「人に親切に」という一文があるのです。
これは痛く、私の心を刺激しました、そう、『また、自己犠牲かよ』と心の中で叫んだものです。
けれど、私は、とりあえずは、そのことに蓋をして、レイキを学びました。
ところで、私の友人も、レイキを学ぶことになったのです。
友人と書きましたが、私にとって、キリスト教と全く無関係な友人はこの人だけです。
もちろん、キリスト教に入る前に友人はいましたが、キリスト教に入る時に、そういうのんクリスチャンの友人は遅かれ早かれ縁を切ることになり、また、キリスト教の中ではお互いに自己犠牲の競争をし合う友人はいましたが、キリスト教を出る時に、共に出た一人を除いて、縁が切れたのです。
だから、私は普通の友達付き合いというものがよくわからないのです。
友人は、2月に私がパワハラを受けてからは特に、弱っている私のために、レイキを、また心の癖の改善をしてくれました。
「苦しい時は、いつでも言ってくれればするから」
そして、実際に、いつでもそうしてくれたのです。
私は感謝しながらも、何だか、相手に自己犠牲を強いているのではないかという気がしていました。
果ては、私は友人の地元に行って、対面で心の癖の改善を受けたのです。
そこでだんだんと身にしみてわかってきたことは、友人が私にそうしてくれるのは、決して自己犠牲では全くなく、本当に喜んでやってくれるということです。
自己犠牲というのはかたちのことではなく、そこに心が伴うかどうかということなのだということがわかりました。
その時に、「人に親切に」という言葉も、心が伴うならば、自己犠牲ではないのだと気付いたのです。
このことがわかった時に、私は相手に依存することなく、相手に頼ることができたような気がしました。
実は、依存は相手を信頼することではなく疑うことであり、相手を信頼するならば相手に依存することなく頼り、そこに差し出された心をただ感謝して受け取ることができるのです。
このことを教えてくれた友人にただ心から感謝するばかりです。