私がもっとも赦せなかったのは、原理主義(簡単に言うと、自分たちの教え以外は全て間違っており、自分たちの教えだけが正しいという考え方)です。
どうして、そう思ったかというと、そういう原理主義は、何の差別もなく何も裁かない無意識とは違うと思ったからです。
この原理主義は、各宗教間で、あるいは同じ宗教の中でさえ、争いを絶え間なく生み出しています。
だから、そういう原理主義だけは赦せないと思ったのも、当然と言えば当然かもしれません。
もちろん、この原理主義というのは、何も宗教だけのことではなく、教えを、もっと一般的な考えという広いものにしてみれば、日常生活のいたるところで見られるものです。
「私は正しくて、お前は間違っている」
そんな言葉は、口に出さなくても、この人間世界に溢れかえっているのかもしれません。
私は、そんな原理主義さえ、この世からなくなればもっといい世界になると思っていたのです。それだけではなく、無意識さんを知ることはそういう原理主義を信じていては、決して不可能だと思い込んでいたのです。
けれど、何も差別せず何も裁かない無意識は、原理主義を信じる人たちと対立するものなのでしょうか?
言い換えれば、無意識は、原理主義だけは裁くものなのでしょうか?
いいえ、そんなことはないのです。
無意識は、原理主義さえ裁くことはなく、原理主義を信じる人たちと対立することはないのです。
むしろ、無意識はそういう人たちの中でさえ働いているのです。
だとしたら、そういう人たちを無意識が裁かないなら、誰がそういう人たちを裁いているのでしょうか?
私なのです。
この私が、原理主義を、原理主義を信じる人たちを裁いているのです。
過去を振り返ると、私自身、原理主義者でした。
私は、ある宗教を熱心に信じていましたが、その宗教を信じないものは、地獄に行くとまでは思っていなくても、救われていない、間違っていると思っていたのです。
だから、私が裁いている原理主義を信じる人とは、ある意味、過去の私であり、この私が原理主義を信じる過去の私を裁いていることになるのです。
そうして、今の私は原理主義を裁くことで、原理主義と原理主義を信じるものは絶対に間違っているという原理主義を信じていることになっているのです。
けれども、無意識は本当に何も誰も裁かないのです、こんな原理主義を裁く原理主義に陥っている私をも裁かないのです。
無意識が裁かないなら、どうして私が裁くことができるのでしょうか?
原理主義と原理主義を信じる人たちも、そういう原理主義と原理主義を信じる人たちを裁く自分自身も。
無意識は裁くのではなく、空気のように全てを、何ひとつ例外なく包み込み、人間の体が水分で成立しているように、全てに浸透して、全てを生かすのです。
だから、無意識を知れば知るほど、私は裁かなくなるのです、いや裁けなくなるのです。
誰をも、原理主義を信じていた過去の私をも。