無意識さんとともに

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回復のための3つの川仮説1

(以下は、あくまで私の体験から導き出した仮説にすぎないことをお断りしておく)

私が今まで難治性鬱から回復してきたプロセスを振り返ると、3つの段階があったと思う。
3つの段階は、川の下流、中流、上流にたとえられるかもしれない。

1 トラウマセラピー(下流)
FAP(他のトラウマセラピーでも同じ)を受けてトラウマを処理する段階。
これによって、それまでひどく疲れやすく週に3日ぐらい寝込んでいたのがそういうことはなくなり、何とか日常生活を送れるようになった。
これは、マイナスからギリギリの0のところまで戻る感じ。

2 催眠、パーツセラピー(中流)
トラウマは処理されても、心身の警戒モードは解けない。
常に緊張状態にある。
特に、支配者(FAPでは、人を支配者、虚無、光の人に分ける)を前にすると、何だかサイレンが鳴り響く状態になる。
いわゆる闘争か逃走かという交感神経優位になり、それで疲れ切ると、今度はフリーズした背側迷走神経優位になる。

ところで、FAPの支配者という外在化のナラティブは、まさに劇薬とも言える。
FAPとは、毒をもって毒を制すトラウマセラピーである。
(ノイズキャンセリングヘッドフォンのように、ノイズでノイズを打ち消すものとも言われてもいるが)

毒でもノイズでもいいが、ある程度、トラウマが処理された後は、この支配者というナラティブは、ただの毒でありノイズになってしまう。

というのは、支配者がいるという世界観を持ち続けている限り、闘争か逃走かという交感神経優位のサイレンモードは解除できないから。

自分を攻撃してくる支配者がいるなら、そう易々と警戒を解くわけにはいかなくなる。

だから、この2段階目は、この支配者というナラティブからきっぱり卒業することが必要になってくる。

ただ、卒業するためには、人によっては柔らかく離陸するには2ステップが必要かもしれない。

1ステップ目が、催眠でトランスに入り、トランスに入ることで、無意識さんと親しくなること。
トランスは無意識さんのシェルターみたいなもので、支配者の攻撃は感じられなくなる。
そういうトランスに入ることを重ねれば、無意識さんへの信頼が増し、支配者に対する恐怖は減り、結果的に、交感神経優位モードの解除に繋がっていく。

2ステップ目は、さらに、支配者というナラティブを手放して、交感神経優位モードを解除するために、パーツセラピーをして、もはや外在化ではなく、自分の内側のパーツに目を向けていく。

その時に、最も必要となるのは、セルフという存在である。

セルフ(自己)とは、無意識、神、大我…言葉では何であってもいいが、そういう自分を統合していく力を持ったものが、自分の中にあるということだ。

ここがかなめとなる(実際、「悪い私はいない」というIFSの本の中では、パーツにスペースを空けてもらうことでセルフが現れる)。

FAPや催眠の中でも、無意識さんが語られるわけだが、この無意識さんは、自分ではない。
無意識さんは愛を持っているが、自分にはない。
だから、この私は、無意識さんを対象として、無意識さんの愛と力と知恵を外からもらうことが必要になる(これはある意味、キリスト教に似たモデルである)。

けれど、そういうナラティブでは、支配者のナラティブを完全に解消して、自分の中のパーツを統合し、チャイルドを救い出すことはできない。

まるで、曼荼羅のように、自分とひとつである無意識が中心にいて(仏教や神道に近い)パーツやチャイルドが統合されていくのである。

こうして、支配者のナラティブは消えて、腹側迷走神経優位の状態となる。
マイナスを完全に取り除くことによってではなく、こういうナラティブチェンジをすることで、初めてマイナスは完全に消えてプラスに転じる。

これには、人によっては、かなりの時間と労力が必要となる。

(続く)

ハコミセラピー20〜コア・ビリーフの解毒

前回のBeingコースでは、腹の中の怒りのマグマと白百合が出てきて、「自分は、腹の中の怒りを外に吐き出す、投げ捨てる必要はない。なぜなら、怒りが白百合を守ってくれるのだから」と書いていた。

それで、自分なりに納得していた。

 

ところが、今回のBeingコースでは、その思いのさらに下にあるコア・ビリーフが出てきた。

プローブエクササイズということで、2人1組になり、マインドフル状態になって、さまざまなプローブ(無意識の反応を引き出す言葉)を投げかけてもらって、瞬時に起こってくる自分の無意識の反応を、ポジティブで合ってもネガティブであっても、観察していく。

自分が特に反応したのは、

「怒りを感じてもいいんですよ」→破滅しそう

「好きな人と嫌いな人がいていいんですよ」→嘘だろ!地獄に落ちる

「あなたはそのままで完璧ですよ」→ふざけるな!内臓が弾け飛びそう

「あなたの人生はあなたのものですよ」→母のもの

「白黒はっきりさせなくても大丈夫ですよ」→はっきりさせないと苦しいよ

「そのままのあなたに価値がありますよ」→価値なんてないよ!
「あなたには仲間がいますよ」→そうだね

この中からひとつ選んでセッションしていくのだが、休憩時間に、自然と自分のコア・ビリーフが浮かび上がってきた。

「怒ると嫌われる、見捨てられる、人に石を投げられる」

それで、その後のセッション練習では、セラピスト役のAさんに、このコア・ビリーフを言ってもらうところから始めてもらった。

(以下はおぼろげな記憶なので、実際と、違いがあるかもしれません)

「怒ると嫌われる、見捨てられる、人に石を投げられる」

そう声に出して言われると、
お腹の中でぐつぐつと対流してマグマのような怒りがあるのが感じられた。

そこから上に溢れてきそうなのだが、喉に岩盤のようなものがあって出てこない。

けれど、距離を置きながら、このマグマを眺めていると、次第に岩盤に穴が開きはじめて、マグマが自分から溢れてくるような感じがする。

マグマが溢れてくると、中から火の塊のような子供が出てくる。

「何だかお下品ね」

いつの間にやら、紫の喪服のような着物を着た上品な女性が傍らに立って私にそう言う。

そうすると、マグマのような怒りが萎縮して、引っ込みそうになる。

ここで私は思い出した。

ほんの小さな頃、私が怒ると母が言った言葉を。
「怒るなんて、キチガイ。頭がおかしい」

どうやら、それ以来、私は怒りを外に出せなくなったようだ(と言っても、時々、ためにためて外に爆発することはあったけれども。その度に母は私に同じ言葉を繰り返した)。

どうも、この紫の着物の美人そうな女性(母は自分が美人であることを鼻にかけていた)は、その母のイメージらしい。

何だか、寒い、寒い、寒い。

(このあたりの順序は記憶が定かではない)

私はオブザーバーのYさんに背中に手を当ててもらっていると、身体がブルブルと震え出し始める。

もう座っている体勢を取れなくて、横になってしまう。

気がつくと、私は火の子供なのに、氷の鎧を身に着けている。
冷たい火=氷の鎧。
それで、内にある自分の怒りが外に出ないように、外にある人の怒りが内に入ってこないように防いでいる。

怒りが怖い、怖い、怖い。

でもプルプルと震えて、鎧のピースとピースを繋ぐ糸が緩んできていて、鎧が外れかかってくる。

胸が気持ち悪くてたまらない。

胸に手を当ててもらってだんだん楽になる。

鎧が全部取れてしまって、気がつくと、森永のエンゼルのような裸の子どもになっていて、とても恥ずかしい。

周りに、同じくエンゼルのような子どもたちが横たわっている私を取り囲んでいて、楽しそうに覗いていたり、踊って歌を歌っていたり。

「怒ってもいいじゃない、人間だもの」

どこからか、そんな春の日差しのような明るい声が聞こえてくる。

AさんとYさんに、私の小さな頃の呼び名をつけて、繰り返してもらう。

「⚪︎⚪︎ちゃん、怒ってもいいじゃない、人間だもの」


「⚪︎⚪︎ちゃん、怒ってもいいじゃない、人間だもの」

「⚪︎⚪︎ちゃん、怒ってもいいじゃない、人間だもの」

言われるたびに、そうだよねという気持ちとそうじゃないよという気持ちがせめぎ合って、吐きたいような気持ち悪さ。

けれど、頂点に達した時に、痛みが走って、何だか、胸の奥底に埋もれていた、まるで象牙のような、白い牙のようなものが自分から出ていったように感じた。

「怒るなんて、キチガイ。頭がおかしい」という牙=長年のコア・ビリーフ…

そうして、何だか、全身に解放感。
それをしばらく味わって、起き上がった。

「なんか、顔が晴れやかだね」

そう言うふうに言われて、自分でもそう思っている自分がいる。



その後、私はこの前日に自分が怒りを感じるようなことがあって苦しかったのだが、それがどうでもいいことになっているのに気づいた。

どうやら、そのことそのものがどうというのではなく、怒りを感じる自分を自分で罰していたらしい。

もはや、そういう怒りの自罰反応をする装置は胸の奥から抜き去られて、自分は怒ってもいいし、怒らなくてもいいという自由を得たようだ。

Aさん、Yさん、あらためて感謝です。






中心に戻り境界を形づくる瞑想2

以下のスクリプトを音声化したものはこちら

stand.fm

 

では具体的な手順を示します。

1 呼吸に注目し、外部でも内部でもないない中心に戻る瞑想

吸う息、吐く息に注目しましょう。

息を吸って、鼻先に吸い込まれる空気の流れを感じます。

息を吐いて、鼻先に吐き出される空気の流れを感じます。

繰り返しましょう。

息を吸って、鼻先に吸い込まれる空気の流れを感じます。

息を吐いて、鼻先に吐き出される空気の流れを感じます。

息を吸って、鼻先に吸い込まれる空気の流れを感じます。

息を吐いて、鼻先に吐き出される空気の流れを感じます。

 

それでは、鼻先の吸う息、吐く息の流れを感じ続けながら、イメージで自分の外部でも内部でもないからだの中心に意識を持っていき、とどめます。
中心は、胸でも、おへその下の丹田でもどちらでもいいです。

息をゆっくり吸って、息をゆっくり吐いて、意識をからだの中心にとどめます。
息をゆっくり吸って、息をゆっくり吐いて、意識をからだの中心にとどめます。
息をゆっくり吸って、息をゆっくり吐いて、意識をからだの中心にとどめます。

必要と思われるだけ繰り返してください。

2 からだに注目し、自分のかたちをはっきりさせる瞑想

からだの部分を意識します。
慣れないうちは手を当ててもいいです。

頭のてっぺんを意識します。
息を吸って、息を吐いて、頭のてっぺんを意識して。
息を吸って、息を吐いて、頭のてっぺんを意識して。

顔を意識します。
息を吸って、息を吐いて、顔を意識して。
息を吸って、息を吐いて、顔を意識して。

耳を意識します。
息を吸って、息を吐いて、耳をすっぽりと意識して。
息を吸って、息を吐いて、耳をすっぽりと意識して。

後頭部を意識します。
息を吸って、息を吐いて、後頭部を意識して。
息を吸って、息を吐いて、後頭部を意識して。

喉を意識します。
息を吸って、息を吐いて、喉を意識して。
息を吸って、息を吐いて、喉を意識して。

首の後ろを意識します。
息を吸って、息を吐いて、首の後ろを意識して。
息を吸って、息を吐いて、首の後ろを意識して。

両肩を意識します。
息を吸って、息を吐いて、両肩を意識して。
息を吸って、息を吐いて、両肩を意識して。

両腕を意識します。
息を吸って、息を吐いて、両腕を意識して。
息を吸って、息を吐いて、両腕を意識して。

両手を意識します。
息を吸って、息を吐いて、両手を意識して。
息を吸って、息を吐いて、両手を意識して。

胸を意識します。
息を吸って、息を吐いて、胸を意識して。
息を吸って、息を吐いて、胸を意識して。

お腹を意識します。
息を吸って、息を吐いて、お腹を意識して。
息を吸って、息を吐いて、お腹を意識して。

背中を意識します。
息を吸って、息を吐いて、背中を意識して。
息を吸って、息を吐いて、背中を意識して。

腰を意識します。
息を吸って、息を吐いて、ぐるっと腰を意識して。
息を吸って、息を吐いて、ぐるっと腰を意識して。

両ももを意識します。
息を吸って、息を吐いて、両ももを意識して。
息を吸って、息を吐いて、両ももを意識して。

両膝を意識します。
息を吸って、息を吐いて、ぐるっと両膝を意識して。
息を吸って、息を吐いて、ぐるっと両膝を意識して。

両すねを意識します。
息を吸って、息を吐いて、両すねを意識して。
息を吸って、息を吐いて、両すねを意識して。

両ふくらはぎを意識します。
息を吸って、息を吐いて、両ふくらはぎを意識して。
息を吸って、息を吐いて、両ふくらはぎを意識して。

両足首を意識します。
息を吸って、息を吐いて、両足首を意識して。
息を吸って、息を吐いて、両足首を意識して。

両足先を意識します。
息を吸って、息を吐いて、両足先を意識して。
息を吸って、息を吐いて、両足先を意識して。

頭のてっぺんから足の先まで意識します。
息を吸って、息を吐いて、からだ全体を意識して。
息を吸って、息を吐いて、からだ全体を意識して。
息を吸って、息を吐いて、からだ全体を意識して。

からだ全体を意識しながらこの言葉を心の中で唱えます。
『これが私のからだ、ここまでが私』
『これが私のからだ、ここまでが私』
『これが私のからだ、ここまでが私』

3 イメージを使って、透明な境界を形づくる瞑想

からだから1、2センチ外に境界をつくり、自分のからだをすっぽりと覆います。
厚みのある境界なので、自分に必要でないものは入って来ません。
透明な境界なので、空気は入って来ますし、自分に必要なものは入って来ます。

3回、この透明な膜をイメージします。
1回目、『ここが私の領域、私は私は守れる』と心の中で唱えます。

2回目、『ここが私の領域、私は私は守れる』と心の中で唱えます。
3回目、『ここが私の領域、私は私は守れる』と心の中で唱えます。

膜の外に、人の思いや感情をイメージし、膜のうちに自分の感覚をイメージします。
そのイメージを形作れたら、自分のペースで戻ってきて、目を開けます。

中心に戻り境界を形づくる瞑想1

この頃、やっている瞑想を紹介します。

これは、自我や境界がはっきりとせず、人の影響を受けやすく、人の感情や感覚と自分の感情や感覚が区別できなくなって混乱しやすい方(エンパスと言われるタイプや人からどう見られているのか気になって不安や恐れに駆られやすい方)に合っている瞑想だと思います。

そういう人が、よくあるワンネスや一体感を感じる瞑想をすると、ますます自我や境界が薄くなって、自分と人がごた混ぜになり、ますます混乱や不安や恐れに駆られることがあります。

実は、境界があるからこそ人と交われるし、ワンネスや一体感も飲み込まれることなく感じることができるのです。ここが非常に大切です。

ですから、まず、この瞑想をして、ボディイメージ(からだにある自我)を強化して、自他境界をはっきりさせることが大切だと思います。

そうして、安定して人に振り回されなくなってから、ワンネスや一体感を感じる瞑想をすることが順路のように感じます。

私自身、この瞑想を始めて数ヵ月経っていますが、自分の形というものがはっきりしてきて、人と自分の区別がはっきりしてきて、人からいいものは受け入れ、そうでないものは受け入れないということができてきているようです。

 

簡単に言うと、「共感はしても吸収しない」ということが身について来たのです。

この瞑想は3段階で行ないます。

1 呼吸に注目し、外部でも内部でもない中心に戻る瞑想
2 からだに注目し、自分のかたちをはっきりさせる瞑想
3 イメージを使って、透明な境界を形づくる瞑想

具体的な手順は次に説明します。

(続く)


「心に聞く」と「からだに聞く」4

こんなことがありました。


2年ぐらい前のお正月に、おせち料理にも飽きて、とんかつ屋さんに行きました。
そうして、注文する前に、私はいつもの習慣で心に聞きました。
「心よ、今日は何を食べたらいいでしょうか?」

「今日は、ヒレカツを食べた方がいいよ」

これは至極もっともな答えで、確かに、脂質を抑えようとしている私は、ロースよりヒレを食べるのが合っていたのです。

ところが、なんだか、この答えに満足できない私は、からだに聞いてみることを思いつきました。
少し前からフォーカシングでからだの感覚を探ることを始めていた私は、からだにも聞いてみることができると思ったのです。

「からだよ、今日は何を食べたらいいでしょうか?」

からだにも心に聞くのと同じような聞き方で聞いてみたのです。

すると、

「今日は、カキフライが食べたーい」

なんだか、小さな子の声のような声で答えが返ってきました。
『ああ、そうなんだ。私は、カキフライが食べたかったんだ』と合点がいって、美味しくカキフライを食べました。

後で振り返ってみると、心とからだに効いたのでは違いがあることに気づきました。

心は、「〜した方がいいよ」と答えました。

それに対して、からだは、「〜したい」と答えたのです。

心は、無意識の自分の思いを答え、

からだは、無意識の自分の感情や感覚を答えているのです。

無意識の自分の思いと、意識の自分の思いには距離があります。

だから、意識の自分は無意識の自分に従うことになります。ちょっと無理がありながらも、従うという感じです。

ところが、無意識の自分の感情や感覚と、意識の自分の感情や感覚には、距離があるわけではなく、ただ気づかなかっただけで、『カキフライが食べたーい』と言われると、なんかしっくりする感じがして、『ああ、自分はカキフライが食べたいんだ』と素直に気づくことができる感じがあるのです。

もしかしたら、意識と無意識の統合というけれど、それは心でなされるのではなく、からだにおいてなされるものかもしれない、そんなふうに思えるのです。

けれど、それは心を置いてけぼりにするというのではなく、からだにおいて心とからだも自然に一致する、意識と無意識も統合される、そんな場所があるのではないかと思うのです。

そうして、「心に聞く」とは別に「からだに聞く」を探っていくと、なんだか楽になるような感じがあるのです。

もちろん、それは「からだに聞く」ことが「心に聞く」ことより優れているというのではありません。

「心に聞く」は、無意識の自分の思いを知りたい時に、また特に何かを選択しなければならない時に、今も使っています。

でも、「からだに聞く」は、思いだけではなく、無意識の感情や感覚を知って自分がどういうものなのか、全体的に知ることができるのです。
感情や感覚というのは、思いよりもさらに無意識の中核にあるような気がするのです。

(続く)


「心に聞く」と「からだに聞く」3

前回、「無意識に聞いても、その答えに盲従するのではなく、参考意見として聞き、意識も協働させることが必要なのかもしれません。」
と書きました。

今、河合隼雄著作集の「ユング心理学入門」、そのユングの生涯のところを読んでいます。

ユングには、幼い頃から、No.1の人格とNo.2の人格があったそうです。
これは、多重人格ということではなく、自我と自己、意識と無意識のことだと思います。

ユングは、No.1よりNo.2を、つまり意識よりも無意識を重要視したのではないかと思っていましたが、
「この夢は、ユングに重大な啓示をもたらすものであった。この夢によって、彼は核の人格のNo.1は光の運搬人であり、No.2はNo.1に影のように従っていることを知ったのである。そ
して、彼はこの時に、それがどんなに小さく弱いものであっても、自分のあかりであるNo.1をあくまでわがこととしていくことを決心したのである。」(河合隼雄著作集1 p.245)

意識は小さなあかりであり、光であるとも言われています。

もちろん、それは単にNo.2を無視するのではありません。

「彼は自分自身をNo.1と同一と感じるようになり、No.2を後にして前進していこうと決心した。しかし、どんな時でも、彼はNo.2をあえて否定したり、妥当でないと宣言したりはしなかった。」(同 p.245)

そして、ユングは自分と同時代のニーチェについて書いています。

「…ニーチェはその壮年期がすぎてからやっと彼のNo.2を発見したのだが、…ついには、自分とNo.2の同一化という自我肥大(インフレーション)の危険に陥ってしまったのである。」(同 p.245)

無意識は非常に魅力的なものです。
けれど、意識をなくして無意識と同一化してしまうと、逆説的なことが起こります。
なくしたはずの自我が膨張するのです。
つまり、自我=無意識になってしまって、神のように振る舞うことがあるのです。

これは、宗教にも、スピリチャアルにも、思想にも、心理療法にさえ、見られることかもしれません。

ですから、意識また自我を捨てるのではなく、強化しつつ、無意識や自己と向かい合っていくのです。

吉本先生が意識と無意識の統合といい、またハコミセラピーが意識と無意識の交流というのは、そういう危険を回避する深い智慧があるように思われます。

ところで、「心に聞く」ことは無意識の自分の思いを聞くことであり、だとしたら、無意識の自分の感情や感覚はどこで聞いたらいいのでしょうか?

(続く)

「心に聞く」と「からだに聞く」2

次にあげられるのは、こんな説明です。

②支配者は、心のふりをして囁いてくる。自分の心と同じ声、同じ調子で囁いてくる。

それで、「心に聞く」人は、支配者の声を心の声だと思い込んで行動し、見当違いの結果になるわけです。

この説明も、支配者というナラティブを前提にして考えればそれなりに筋が通っているし、①の精度ということも、支配者の声と自分の声を聞き分けられないということと繋がっているのかもしれません。

ただ、ことはこれで終わりません。

③心、または無意識は「賢明なことには賢明であり、愚かなことには愚か」であるということです。

これは、「ミルトン・エリクソンの催眠療法入門」(オハンロン p.137、オハンロンはエリクソンの晩年の愛弟子です)に書かれています。

例としてあげられているのを私なりに要約して説明すれば、
例えば、テニスのやり方を知っていれば、練習をして、レッスンを受け、さらに練習をして上達をすれば、
テニスの試合に出る時には、無意識の力を信じて臨めばいいのです。
そんな時に、かえって意識的になれば上手くいかないでしょう。

これが、無意識は「賢明なことには賢明で」あるという意味です。

ところが、テニスのやり方を知らず、練習もしないし、レッスンを受けない、テニスが苦手な私が、
無意識の力を信じてテニスの試合に出ても、検討外れの結果になることがほとんどでしょう。

これが、無意識は、「愚かなことには愚かである」という意味です。

つまり、どういうことかというと、無意識は知っていることには懸命であっても、知らないことには愚かということになります。

そして、何かを知って身につけるというのは意識の働きです。

つまり、無意識が何かするにも意識の働きと力を合わせてことをなすということです。

エリクソンは、無意識の力と智慧を強調しました。
ところが、行きすぎて、無意識を全知全能の神様のように思ってしまう人たちも、出ました。

そうすると、検討外れの結果になりかねません。

無意識になればなるほどいい訳ではなく、無意識にも意識にもそれぞれの役割があり、意識はなくなることがいいのではなく、意識と無意識の統合が大切なのです。

けれど、どうしても、無意識の素晴らしさを味わってしまうと、無意識になればなるほどいいと思いがちで、無意識を神様のように思ってしまうこともあります。

何を隠そう、私もそういう時がありました。

けれど、そんな時に、心に聞いてみると、こんなことを言ったんです。

「自分で考えて自分で決めてね」

そう、無意識は全知全能の神様ではなく、力と智慧というリソースを持っているにしても、あくまで自分の無意識であり、自分の一部なのです。

無意識に聞いても、その答えに盲従するのではなく、参考意見として聞き、意識も協働させることが必要なのかもしれません。

(続く)