キリスト教の中でひたすら、おこなってきたことは、他人の人生を生きるということだったと思う。
「もはや、私が生きているのではなく、私の中でキリストが生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と実質的にキリスト教を作り上げたパウロは言った。
キリストを生きる、しかし、その中身はというと、牧師や指導者を生きる、彼らの人生を生きる、彼らのコピーとなって生きることだ。
「私はもう自分の人生を生きる力がありません。ですから、あなたが私の人生を生きてください」とよく祈ったものだ。
しかし、そう祈ってつながるのは、神という名の支配者であり、その奴隷となって朽ち果てるだけのことだ。
とここまで書いてきてあらためて気付くのは、私が他人の人生を生きてきたのは、キリスト教を信じる前からもう始まっていたということである。
私は、親という支配者の支配に絡め取られて、親の人生を生きることを強いられていたのであり、キリスト教を信じたのは、単なる「親替え」、血縁の親からキリスト教の神という親に替えたにすぎない。
もう、十分、自分を生きたい、自分の人生を生きたい。
と思っても、知らぬ間に他人の人生を生きようとする自分がいる。
誰かに自分を捧げて、その人のように考え、その人のように思い、その人のように感じようとする。
その方が楽なのかもしれない。
けれど、だからこそ、無意識さんに聞き、頼り、親密にする必要がある。
なぜなら、無意識さんは他人ではなく、もうひとりの自分、本来の自分だから。