あれほど好きだった宮沢賢治が読めなくなってしまった。
朗読を楽しんで、プラスアルファ語感を磨こうと宮沢賢治の詩集を買ったが、一編読んだだけで、どうにもこうにもならない。
最初に、小学生の時に、教科書で「よだかの星」に出会って以来、彼の童話や詩は特にお気に入りだった。
よく口ずさんだものだ。
特に、「銀河鉄道の夜」には大きく影響されたものだ。
「よだかの星」のよだかは「ああ、つらい、つらい。僕はもう虫を食べないで死のう」と言って最後は星になり、「グスコーブドリの伝記」のブドリはみんなのために冷害を回避するために噴火の犠牲になり、「銀河鉄道の夜」のカンパネルラは溺れたザネリを自己を犠牲にして救った。
そして、賢治自身、「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言っている。
これがまさに重苦しさの根っこのように感じる。
賢治の童話にも詩にも、無意識さんから来ている輝きはあるように思うのだが、それがこの犠牲的精神、はっきり言えば、大乗仏教の教えで読み替えられてしまっていると思う。
「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という性欲動はまさに不幸を生み出す根源なのではないか、
世界全体の幸福を求めたからといって、誰ひとり幸福を感じる人はいないのではないか。
むしろ、世界というものが、私の目に映る世界であり私の目から見る世界ならば、「私ひとりが幸福でなければ、世界全体は決して幸福になり得ない」と言えるのではないか。