「そういう意味で、シモーヌ・ヴェイユという人は、『無神論は精神の浄化だ』と言っている」
『シモーヌ・ヴェィユって初めて聞く名前だ』とぼくは思った。
「人間の持つ神の観念は、神ではないのだから、当然、そういうことになりますね」
ぼくは人差し指でメガネを押し上げながら言った。
「そうだね、だから、神がいるとしてだ、神を敬虔に信じるクリスチャンが無神論者より神に近いとは言えない、むしろ、逆だったりする」
「おもしろい…ですね」
佐伯さんはオレンジジュースを一口飲み、小首を傾げながら言った。
「だが、神を知る方法が全くないかと言われれば、あるかもしれない。さっき、佐伯さんが言ったことは…」
佐伯さんは、自分の名前が出てくると、身を乗りだした。
「大いなるヒントになる。穀物の一粒一粒に宿る神、それは神を感じるということだ。もしかしたら、神は理解したり、信じるものではなく、感じるものなのかもしれない」
「すると、日本人は、昔から神を感じてきたと言えるということでしょうか?」
佐伯さんの方を見ると、乗りだした身をまた元に引っ込めている。なんて素直な子なんだろう。
「そうだね、だが、それは日本人だけの感覚ではないようだ、旧約聖書を読むと、イスラエル民族もそうだし、世界中のありとあらゆる民族が、神を、神という言葉でなければ、聖なるものを感じてきたのかもしれない」
気がつくと、ガラスを通してみる外の世界は帷が降りていた、来た時はまだ茜色に輝いていたというのに。
それから、ぼくたちはお開きにして家路についた。
神楽坂さんは自転車で帰るというので店を出たところで別れた。
ぼくは、佐伯さんと途中まで帰ることになった。
「神楽坂さんってモデルみたいな見た目なのに、話すことと言ったら、大学教授のおじさんみたい。外面と内面ってこんなに違うの?」
『おいおい、それはあなたにも当てはまることだよ』とツッコミの言葉を飲み込みながら、ぼくは言った。
「そこが神楽坂さんの個性だからね」
「部長と神楽坂さんの会話聞いたら、誰もあんな噂、信じる人はいないでしょうに」
「だな」
急に、自分の口調が砕けているのに気づいた。
「録音してみんなにばら撒いたら、いいかもね」
「そんなめんどくさいことできないけどな」
「効果てきめんなんだけどね」
「そうだろうな」
ぼくたちは、フライドチキンの揚げる匂いがする店を通り過ぎて角を曲がった。
「そう言えば…どこまでついてくる気?」
「上地君のお家まで」
いつのまにか、部長から上地君に格下げになっている。
「本当にストーカーになるつもりじゃないだろうな」
「なるつもり」
佐伯さんはぷっと笑いだした。
「おいおい、これ以上、面倒ごとは増やさないでくれよ」
ぼくは、大袈裟にアメリカ人のように肩をすくめた。
結局、ぼくは、佐伯さんを佐伯さんの家の近くまで送る羽目になった。
『何だかなあ』