憂鬱な夏休みがやってきた。
ぼくが家にいると、母は終始、不機嫌だった。昼食もあったりなかったり、あっても塩辛い物だったので、ぼくは学校の給食を懐かしく感じた。
もちろん、家にいると息苦しいので、高村くんたちと自転車に乗って虫取りに行ったり、駄菓子屋に行ったり、爆竹で遊んだりはしたが、以前のような愉快さは戻ってこなかった。
『どうしてなんだろう』
そんな言葉を思いつつも、ぼくははまっちのことばかり考えていた。はまっちが好き、でもぼくははまっちに好きという言葉を言っていない。はまっちもぼくのことをどう考えているかわからない。そして、何より、単に好きという言葉ではまっちを表現するのは違う気がした。
ぼくはやたら勉強した。普通の親なら子供が勉強していたら喜びそうなものだが、もちろんのこと、ぼくの親は普通とは違っていた。
…
ぼくが読書やら勉強やらしていると、母も父も怒った。ふすま一枚隔てられただけの隣の寝室から、「勉強しているんじゃないでしょうね」という怒鳴り声が聞こえて、ふすまがものすごい勢いで揺すぶられた。
ぼくはそのたびに絶望を感じて、もう何かもやめてしまいたくなった。
本当は、ぼくは中学受験をしたかった。クラスメートの平山君は、H大学付属中学を受けると言う。彼はぼくと同じぐらいの成績だった。彼が持っているのと同じ算数の参考書を真似して乏しい小遣いから買ってみはしたが、無駄な試みのように感じた。
母は、オレンジ色の表紙の参考書を見つけると、
「まさか、中学受験したいなんて考えているんじゃないでしょうね」と言ってきた。
次の日、机に置いていたはずの大切な参考書がないので、母が買い物に行っている間に探すと、ゴミ出し用のポリ袋の中に捨てられていた。ぼくは、汚れた参考書を取り出して、押入れの奥にしまった。二度と開いてみる気がしなかった。
…
けれど、ぼくは、今、その参考書を引っ張り出して、勉強し始めていた。中学受験ができるわけではない。けれども、はまっちとの契約がぼくを変えてしまったような気がしてならなかった。
相変わらず、母の怒鳴り声は耳に入ったが、前よりも何だか声が遠かった。
ぼくは、はまっちに会えないかと坂道を上ったところにあるはまっちの家のあたりを自転車でぐるぐる回ったが、会えたことは一度もなかった。
登校日に会えることを期待したが、なぜかはまっちは欠席していた。
一度、思い切って、クラスの連絡簿を見て、家に誰もいない昼間にはまっちの家に電話をしたことがあった。
「もしもし、上地と言いますが、浜崎さんのお宅ですか」
「そうですが…何の御用ですか」
凍りつくような冷たい男の声が聞こえてきた。これが、はまっちのあの父親なのだろう。
ぼくは、精一杯の勇気を振り絞って言った。
「幸子さんはいらっしゃいますか」
「いません」
それだけで、電話が切れた。
地獄のような夏休みが終わって、二学期が始まった。