不思議なもので、心にもやっとしたものをカタチにしてしまうと、とたんにカタチは生命を持って動き出す。
高村同盟のノートに、浜崎幸子と書いたことで、まるで自己暗示のように、『浜崎さんが好きなんだ』という思いの雫が心の水面に滴り落ちて、次から次へと、輪を響かせていった。
ぼくの浜崎さんに対する態度は何だかぎこちなくなった。けれど、当然のことだが、向こうの態度は何ら変わることはない。
「おはよー、うえっち!」
浜崎さんは、教室に入るなり、後ろから近づいてきて、ダブルテールの髪を揺らしながら、ぼくの背中を思い切り叩く。
前には無かったことだが、ぼくはドギマギしてしまって、
「おはよう、はまっち…いや浜崎さん」と蚊の鳴くような声で答える。
「どうした?元気がないね。えっちなことでも考えていたんでしょう?うえっちだからなあ。あはは」
その瞬間、ぼくは、最近、図書室で借りた川端康成の小説を思い出して赤面する。その小説は老人が若い踊り子と同衾する話で、奥手のぼくにはあまりに刺激が強かった。
「まっ、悩みがあったら、いつでも相談してよ、えっちな話以外ね」
唇に人差し指を当てて言って、ぼくのすぐ前の席につく。
それから、授業中、何だかずっと彼女のことを考えてしまっていた。他のことを考えて気をそらそうとしても、自分のすぐ前の席に座っているので、無駄な足掻きだった。
胸の奥がしくしく痛い。これってやっぱり、恋というものなのだろうかと自分に問いながら、もうその答えは十分すぎるほどわかっていた。
放課後、ぼくは必ず、図書室に行って本を一冊借りることにしていた、そして友達と遊ぶことがなければ家に帰って読みふけり、次の日に返却し、また一冊借りる。そんなことを繰り返していた。本の虫だった。
そして、図書室は浜崎さんが現れそうにない場所だったから、ぼくはほっと一息ついて安心していた。
いつものように、書棚の間を巡り、次に読む本を探していた。ぼくは、この前の川端康成を除けば、科学者の伝記やSFを読むことが多かった。
けれど、なぜか、足が恋愛小説のあるコーナーに引き寄せられてしまう。
『ヘルマンヘッセ「春の嵐」?』
本に手を伸ばそうとしたその時、左側の窓の白いレースのカーテンが揺れて、花の香りが鼻をかすめた。
そして、そちらの方向に、いないはずの浜崎さんが机に腰掛けて、何やら本を読んでいた。口元にアルカイックスマイルのような微笑みを浮かべて、瞳は夢見るようだった。
『ふだん、見ない表情…』
何だかみてはいけないものを見たような気がして、足早に立ち去ろうとしたが、体が動かない。
近視の目を凝らしてみると、花びらが舞い散るような柄の表紙に『ハインリヒ・ハイネ詩集』と書いてあった。
『浜崎さんが、ハイネ?詩集?』
ぼくはとんでもないものを見てしまった気がした。
また、レースのカーテンが揺れて、初夏の日差しがちらちらと浜崎さんの顔を照らした。眩しそうに顔をあげて、ぼくの方を見ると、信じられないという表情で言った。
「うえっち、見てた?」
「うん…本を、えーと、ハイネ読んでたんだ」
はまっちは本をバタンと閉じて、顔を赤らめた。何だかとてもかわいかった。
「誰にも言わないでね」
どうしてとは聞かずに、ただぼくはうなずいた。
「秘密だよ」
秘密という言葉に体がビクンとした。
「一緒に帰ろう」