YouTubeで『「与え合う」ことで人生は動き出す』刊行記念オンラインイベントを見た。
それぞれの人の話はみんな違って興味深かったし、発言していない人の表情も何だか面白かった、特にAさんに目を惹かれたが、何だか彼の動作がとても自由なものに感じた。
画面いっぱいに二十人ぐらいの人が映っている。
それを見ていると、ちょっと前に催眠の練習で、お相手の人にいただいた「ミラーハウス」というメタファーを思い出した。
そこに映っているのは、もちろん、自分ではない他の人のものである。けれど、私は他の人の言葉や表情に自分のものを投影するのだろう。それが二十人ほどになると、まるでミラーハウスのように、自分のいろいろな部分が映し出される。
ちょっと怖くもあり、けれど非常に楽しくもある。
ただ、もちろん、鏡である他の人に自分の投影が映し出されるからと言って、それが自分なのかと言うと、それもまた言い過ぎなのだろう。
あくまで他の人の中に自分の映像が映し出されるのだから。
もし、私があの場にいて、「与え合うものは何ですか」と問われたら、何と答えるかな。
「無意識」と答えるかも知れない。
人と与え合い、分かち合うならば、最高のものを提供したい。
そして、最高のものとは、私の何かではなく、私を超える私である無意識さんなのだろう。
無意識さんは、空気のようであり、水のようである。
空気はすべてのものを包み、水は全てのものを活かす。
だが、空気も水も一見、高価なものとは思われない。
けれど、空気も水もなければ、人は生きられない。
…
自分の無意識さんというお茶を茶筌で立てて、言葉という器に丁寧に注ぎ、「どうぞ」と相手に渡す。
相手もまた自分の無意識さんで入れたお茶を私に渡してくれる。
それを味わい、
「素晴らしい味わいですね」とお互いしみじめ味わって、ほっと一息つく。
そんな無意識さんの交換会であるお茶会を夢見たりする。