言葉はイメージに劣ると考えていた。
だから、例えば、禅などは言葉を越えて、言葉なしに、言葉で伝えられない経験を求める。その時に、無意識は魑魅魍魎の跋扈する不気味な暗黒の森として現れる。イメージをガイドとして、この無意識という森を超えて、言葉のないところに到達するのだと。
けれど、ラカンが言うように、無意識は言葉でできている。そして、イメージは言葉なしには捉えられない。
「はじめにことばがあった」
だとすれば、言葉がはじめにあるのであり、創世記神話を持ち出すまでもなく、すべてのものは言葉で作られているのであり、すべてのものは物語である。
その時には、無意識はもはや暗黒の森ではあり得ず、言葉であり、言葉を生み出す無そのものである。
すべてのものは言葉でできており、それ自体がひとつの物語であるが、新たな言葉を発することでこの物語は違う物語へと変わるのだ。