毎夜の夢でぼくの下着は濡れることが多くなった。それで真夜中に目が覚めて、何とか拭き取ろうとしたが、拭い切れるものではなかった。また拭き取ったものもどこに捨てたらいいのか途方に暮れた。
ある朝、母は鬼のような形相でぼくに言った。
「あんたの下着がぬるぬるして洗濯してもなかなか落ちないのよ。気持ち悪い。色気付きやがって、この変態!」
ぼくは心臓にナイフが突き刺さったような痛みと恥ずかしさを感じて、死んでしまいたいような気持ちになった。
そうして、以前にもそうしていたように自分という存在を呪いたくなったが、はまっちの姿を思い出すと、痛みと恥ずかしさは次第に消えていった。
母は、性的なことを忌み嫌っていたが、それなのに、時々、ぼくにはわからない性的なことを口走って、何とも言えない不気味さを感じさせた。
さらに、毎晩のように、父は帰ってくると、母は父を罵る。ぼくは耳を塞いで聞くまいとしていたが、いやでも声が耳に入ってくる。
「あんたの稼ぎじゃ、足りないのよ」
「おれだって精一杯やってるんだ」
「あんたと結婚しなきゃよかった。私を望んでいる人はたくさんいたのに」
「…」
「あんた、まだあの女のこと思ってるんじゃないでしょうね」
「もう連絡もしてない」
「信じられないわ」
「もう10年以上も前のことだろ」
「智彦がお腹にいた時、あんたは私をほったらかしにして、大阪に行って帰ってこなかったのよ。忘れようたって忘れないわ」
「終わったことだろ」
「あんたはなかったことにしてるんだろうけど、私は忘れないわ、決して、死ぬまで。そうじゃない、死んでも」
ダイニングで話しているのだが、こちらに筒抜けだった。
父や母のようになりたくない、はまっちが言ったように普通になりたい。ぼくははまっちといたあの小屋を思い浮かべた。そうして、小屋の鍵を外し、中に入ると、もう父母の声は聞こえない。
ぼくは深呼吸をして、あの木製のテーブルの自分のイス、はまっちの右側に置いたイスにすわった。外では山鳩の声がしていた。棚には薄汚れてラベルが読めなくなっていた薬品の瓶が並んでいた。ステンレスのケースに錆びたメスやら注射器が入っていた。
床は古くなっていて、ギシギシと音を立てていた。
『大丈夫、何がどうあっても』
どこからか、外からのような内からのような声がお腹の底から響いてきた。
ぼくは安心して眠った。
…
目が覚めると、ぼくは自分の部屋にいて、真っ暗だった。どうやら、ぼくは夢の中で眠っていたらしい。母の声も父の声もしない。
階段を降りていくと、誰もいなかった。
ぼくはお腹がすいて、お湯を沸かしてカップラーメンに注いで食べ始めた。
お腹が空いていたからなのか、何なのか、カップラーメンがおいしく感じた。
『自分が世界で一番不幸だとはもう思わない』、そんな言葉が心から浮かび上がってきた。