ミルトン・エリクソンの「催眠療法ケースブック」を読んでいます。
なかなかに高度で理解できないことも多いのですが、それでも面白いなあと思うことも色々と出てきて、いつの間にか、本が付箋でいっぱいになってしまいます。
この本は、エリクソンの催眠のケースが示されていて、そのケースについて、エリクソンと弟子のロッシが対話する形になっています。
最近、その中で、特に興味を惹かれたのは、エリクソンが言っているわけではなく、ロッシが言っているのですが、宗教現象を催眠として捉える視点です。
私自身、キリスト教の中で、いわゆる奇跡と言われるような現象を体験してきたので、キリスト教を卒業した今、それらをどう捉えるかが課題だったのです。
けれども、それらも催眠であると単純に捉えることによって、何だか、とてもスッキリしたような気持ちになりました。
もちろん、宗教を信じている人は異議を唱えると思いますが、これは催眠を主軸としたひとつの物語として捉えると、さまざまな宗教現象は、それが本物か偽物かということが問題なのではなく、催眠だということができます。
キリスト教の源流に立ち返って、イエスについてみても、イエスの起こした奇跡は催眠であったのではないかと見れると思うのです。
そうして、新約聖書で、聖霊と言われているものは、無意識であるとそう受け取れるような気がします。
イエスは、言葉と聖霊の力によって、人々を癒したと言われていますが、言葉は聖霊の種であるということができます。
催眠は主に言葉を手段にしており、言葉は意識的な言葉ではなく、無意識から出る言葉なのであれば、まさに同じことをパラレルに表現したものということもできるでしょう。
私のように、キリスト教を卒業したものにとっても、あるいは、キリスト教に全く関係のないものにとっても、イエスを偉大なカウンセラーまた催眠療法家として捉えてみたら、イエスの言動から学べるものが数多くあるのではないかと思ってみたりもするのです。
吉本先生が、共著で、「この世はすべて催眠術」という本を書かれていますが、そういう見方で、いろいろなことを見てみると、なんだか、絡まった糸がスッと解けるような、そんなきもしてきます。