私は、すぐに、原理主義になりやすいんです。
例えば、大嶋メソッドがいいと思えばそれ以外はダメだと思ったり、エリクソニアン催眠がいいと思えば伝統催眠は役に立たないと思ったり、無意識が大切だと思えば意識などいらないと思ったりします。
キルケゴールという人がいて、この人はたぶんにキリスト教の影響を受けた人だと思いますが、『あれかこれか』ということを提唱しました。
あれかこれか、どちらかを選ぶことによって、初めて真理に到達することができる、そのあれかこれかを誤魔化しては、次に進むことはできない、私なりに言えば、そういうことです。
私も、そういう考え方に、ずいぶんとなじんできました。
もちろん、こういう考え方が役に立たないわけではありません。
あれかこれか、はっきりと切り分けることによって、ある面にスポットライトが当てられて、新しい発見がなされることもあります。
そうして、キルケゴールは、この『あれかこれか』という弁証法を、ヘーゲルの『あれもこれも』という弁証法を批判して、表したわけです。
最近、ある方に、吉本武史先生の遺稿集を借りて、読み進めています。
前に、吉本先生のCDを聞いた時も思いましたが、吉本先生は何かを批判することがなく、とてつもなく、間口が広い感じです。
それは一体、どこから来るのかと不思議に思っていましたが、どうやら、ヘーゲルの影響もあるようなのです。
ヘーゲルの弁証法は、キルケゴールが批判したように、単に『あれもこれも』というごった煮ではないのかもしれません。
すべては、正(テーゼ)ー反(アンチテーゼ)ー合(ジンテーゼ)と展開します。
「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立し合うが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。
最後には2つがアウフヘーベン(止揚)される…アウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されている」Wikipediaより
これを単に哲学的な必然としてではなく、心理療法、催眠療法として捉えれば、まさに、無意識ー意識ー無意識と意識の統合であり、また、リフレーミングということになるのではないかと、ふと、思ったわけです。
そうして、何をも否定しない、あの広さは、単に懐が深いというだけではなく、心もまた、問題というアンチテーゼによって、新たなリソースが明らかになって統合されていくことを、臨床の場面で知っておられたからではないかと思ったのです。
正(テーゼ)ー反(アンチテーゼ)ー合(ジンテーゼ)と、