無意識さんとともに

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支配からの卒業〜私が私であるために 15 ターニングポイント⑶ グッバイ、ユング

キリスト教からは卒業したが、神秘的なものに対する傾向は自分の中に残っていた。

「何だか、地に足がついていないでふわふわしているね」

よく小さな頃からそう言われたものだ。

占い、超能力、霊能力、オカルト、スピリチュアルなどの嗜好はそこから生じているものだ。

そうそう、催眠術さえも、そういう一連の流れの中で、中1の頃試したことがある。

キリスト教時代も、異言、預言、癒し、知識の言葉、知恵の言葉などの奇跡、そして神とひとつになることに憧れていったのも同じことであるに違いない。

だから、キリスト教は卒業しても、フロイトよりはユングに惹かれていた。

フロイトは、すべてを性的なものから捉えるが、なんてつまらない偏狭な見方なんだろうと思っていた。

そうして、無意識もフロイトは抑圧された意識として捉える。そんなところからは何も出てこないではないかとそんなふうに思っていた。

それに比べれば、ユングは、人間を性的なものではない、もっと違った点から捉え、無意識も個人の無意識ではなく、その奥に集合的な無意識を考える。無意識とは、深い森のようで魅惑的である。

吉本先生、O先生の言う『無意識さん』も、フロイトの言う無意識よりは、ユングの言う無意識に近いのではないかとそんなふうに思っていた。
そうして、私はO先生の臨床催眠講座に参加した。
ところが、2つのことで頭をガーンと殴られる思いがした。

まずは、悩みを聞いてメタファーを出すのだが、そこでは客観的情報に基づいてメタファーを出すことである。

それは、ユングのやったようなアクティブイマジネーションではない。

あくまで、客観的情報に基盤を置いて、無意識さんに働いて、メタファーを出すのである。
その点で、アクティブイマジネーションでも占いでもスピリチュアルでも霊能力でも超能力でもない。
ある人が、よく覚えていないが、象がどうっと走っているとかいうメタファーを出したら、O先生が、「それでは単なるスピリチュアルになってしまう」と言われたことが印象的で頭に残っている。
実は、この客観的情報を何よりも重視するというのは、ミルトン・エリクソンが強調したことでもある。
もうひとつは、フロイトが重視されていることである。

それは、フロイトの無意識の捉え方というより、心理性的発達理論に基づいて、自分の深淵を見て、その中に、自分の破壊欲動(タナトス)と性欲動(エロス、ただし、一般的なイメージとは違い、神になろうとする欲動)を知り、内省することが強調されていた。

言い方を変えれば、「人のことはわからない、自分のことさえわからない」。私が人のことを直接的に知ることはなくて、人の中に自分の投影を見るのである。

人が鏡となってそこに自分の姿が映る。

だから、内省をして、自分の破壊欲動と性欲動を知らなければ、間接的に人のことも知ることはできない。

内省が深い分だけ、間接的に人のことを知ることができるのである。

この2つの衝撃を通して見えてきたのは、無意識さんとは、フロイトの言う無意識でもないのはもちろんのこと、ユングの言う無意識でもない。

ユングの言う無意識は、そこを下っていけば個人の無意識を突き抜けて、集合的無意識にいたり、集合的無意識は人類共有の無意識であって、人のことを直接、知ることができる。

集合的無意識は、森のようであり、神のようでもある。

そこには、奇怪なイメージが散乱しており、アニマとアニムスや老賢人やグレートマザーなどの元型がある。

また、ユングが10代の時に見たような神でもある。

ユングは牧師の息子だったが、ユングが見た夢の中では、神は目を持つ巨大な男根であり、口から大量の汚物を吐き出し、教会の屋根が崩れるという夢を見たと言われる)

ユングの家系には、霊能者がおり、ユング自体、占星術や、易や錬金術やオカルトに傾倒したが、それは無意識がこのようなものであれば必然と言えるかもしれない。

ユング自身、父・子・聖霊の三位一体に悪魔を付け加えて、四位一体にしたが、さらに人間が集合的無意識という森を突き抜けて神になるという道を考えたとも言える。

けれど、無意識さんはそういう複雑怪奇な天国へと導くようなものではない。

催眠講座を通して私が知っていった無意識さんとは、「あるようでない、ないようである」お方であり、晴明な光のようであり、凪であり、人間を神にするどころか、むしろ、神になろうとしてやまない人間を、自分以外のものになろうとしてやまない私を、ただの人間に、本来の私に戻してくれるものである。

無意識さんが与えるのは、酩酊ではなく素面なのである。

ユングには、内省がないと思う。
エリクソンのような客観的な情報に基づくものではなく、とめどもなく奇怪な想像である。

その想像とは、まさにユング自身が10代の時に見たあの不気味な神になろうというものであって、フロイトから見れば、性欲動(神になろうという欲動)の暴走であると言うしかないのかもしれない。
ユングについては、実話を元にした「危険なメソッド」と言う映画がある。
その映画か、あるいは、「危険なメソッドから読み解く治すこと」

https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/34143/files/10_ihara_91_102.pdf

と言うお茶の水女子大学の論文を読むといいかもしれない。
私が、その論文を読んで思うのは、論文の作成者の意図とは別に、結局、ユングの言う無意識は、グレートマザーの支配の磁場であり、男根の神であろうとした彼は無意識の森にあるグレートマザーを追い求め、それに飲み込まれてしまったのかもしれないと言うことである。
残念ながら、私は、それはごめん被りたい。
私は、もう神ではなく、人間に私になりたいのである。

参考
ちなみに、エリクソンが超能力や占いなどを否定していることについては、「私の声はあなたとともに」(シドニーローゼン)のp.203以下参考。
超心理学の分野が科学的に確立されているなんて、私は信じていないことをお知らせしようと思います。これらの能力が存在するといういわゆる証拠は、間違った数学的論理、データの誤った解釈、最小の感覚刺激の見落とし、偏った解釈、そしてしばしばまったくの詐欺に基づいていると思います。私は、催眠の研究を神秘主義的で非科学的な意義から分離させようと、50年以上も努力してきました」
このページの後、エリクソンが占い、超能力などを暴いていることが書かれる。
彼はそれらがトリックであり、何ら神秘主義的ではない観察によるものであることを示している。