無意識さんとともに

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黎明〜鬱からの回復 73 藤堂さん

私たちは、カラオケでの礼拝後に二人で決まってランチを食べたあのファミレス、チェーンでもないマイナーなファミレスで待ち合わせた。

今も、そこに店が存在しているかどうかもわからなかった。

けれども、私たちが再会するとしたら、その店以外には考えられなかった。

もう20時を過ぎていた。

改札口を出ると、酔っ払って何かを口走っている学生が数人いた。

そうだ、ここは学生街なのだ。

私はそんなことを思って、エレベーターに乗る。

エレベーターを降りると、すぐ右手に、私と藤堂さんが礼拝をしたカラオケの入った書店が見えるはずだ。

ところが、そこには、書店は跡形もなくなくなっていた。

代わりに、チェーン店の薬局になっていた。

その上の階にカラオケがあって、ビルの外に看板があったはずだが、それもないようだ。

私は何だか不安に駆られて、急いで歩を進めた。
駅から続く、まっすぐな通りの右側を歩いていく。

そうして、しばらくすると、黄色い看板にシェフの絵を描いた看板のあの店があった。

よかった、今もあった…

チャリンと扉をくぐっていく。

あたりを見回すと、私たちがよく座っていた窓際の席に女性がいて、手を振ってくる。

その顔を見ただけで、何だか胸から熱いものが込み上げて止まらなくなりそうだ。

どうして、もっと早く連絡しなかったんだろう。

そんなことを思いながら、彼女と向かい合わせに座る。

「久しぶりだね」

彼女の声は、私が記憶しているよりもずっと深みのある声に聞こえた。

「そうだね、久しぶり」

そう言って、私はコホンと咳をする。

「もういいの?」

まっすぐな目で私の目を覗く。
彼女の顔をよく見ると、確かに数年経ったことが感じられる。私が知るよりも大人びた顔だ。

「ほとんど、もう、いいよ」

それから、私たちはドリンクバーのところに行って、それぞれ飲み物を持って戻った。

「同じ飲み物ね」

そう言って藤堂さんは笑いかける。

気づけば、私も同じアイスミルクティーを持ってきていた。なぜにすぐに気づかなかったんだろう。

「そうだね」

私も自分の顔が心なしか緩むのを感じる。

そうして、ストローに唇をつけて、甘くないミルクティーを一口飲む。

彼女も同じ動作をしている。

窓の外では、時折、車が通り、店内には私たち以外の客はいない。

「電話で聞いたけど…」

「ああ」

ちょっと心がびくつくのを感じた。

「私も同じ」

「同じって?」

驚いて、思ったより大きな声が出てしまう。

「私も…もう…何も…信じていないの」

催眠の現象学99 習慣or心に聞く

たぶん、強迫性パーソナリティ障害の気があると思うんです。

できれば、毎日、同じ時間に同じことを同じ分だけ行いたいんです。

そうして、習慣化していくととても安心するのです。

 

昔、天才バカボンというアニメがあって、バカボンのパパが何時何分に何をするという分刻みのスケジュールを作っていて、最後はトイレに行きたい時にもトイレにも行けずスケジュールそのものが破綻するという内容だったと思うのですが、

分刻みのスケジュールはできないまでも、計画を作ってはうまくいかなくなってまた作り直すということをし続けてきました。

 

人生には、外から突発的なことが起きるのですから、毎日、同じ時間に同じことを同じ分だけしてせっかく習慣にしても、必ずそう出来ない日があるんです。

また、自分の体調や気力でもできない日が起こります。

そんな時、自分が築き上げた習慣という城が崩壊してしまったような、何とも言えない痛ましい気持ちになります。

 

それで、当分は何もできなくなり、しばらくすると、またゼロから始めるような気持ちで計画を立てるんです。

そうして、自分の人生、やり遂げたことなんて何もないよなと、自分を責めてしまうんです。

 

今回も、調子が悪くて、運動するという習慣が崩れてしまい、そういうふうに嫌な気持ちになってなかなか再スタートすることができませんでした。

 

けれど、この頃は、他のことで何もかも心に聞いてやっているので、そうだ、運動のことも心にいつ、何をどれだけやるのか聞いてみようと思いました。

 

「心よ、今日は運動するの?」

「心よ、今、やった方がいいの、それとも何時にやった方がいいの?」

「心よ、筋トレをやった方がいいの、それとも有酸素?」

「心よ、どれぐらいやった方がいいの?」

すると、心は、日々、その時々で違ったことを返してくれます。

 

心は神様ではないので、その通りしなかったからといって、何か罰があるわけではありません。

 

けれど、心の言う通り、やってみると何だか調子がいい、

しかも、自分であれこれ悩んで計画して習慣化して、その通りできないとイライラしてということが、心に聞いて任せてみれば、まるきりなくなることに気づきました。

 

これはほんとに楽です。

 

今まで、何を苦しんで自分でジタバタして来たんだろうと思ったりするんです。

 

黎明〜鬱からの回復 72 臍の緒

O先生は簡潔明瞭に答えた。

「いや、キリスト教の限界ではなく、支配です」

私は、目の前が真っ暗になった。

後から考えると、それは太陽の光に照らされて、真っ暗になったのかもしれない。

けれど、その時には、本当に真っ暗だった。

もし、神と人間との親子関係も限界ではなく、支配なら、神を父と呼んで済ますような逃れ道ももはやないことになるのだ。

もはや、私はどんな形でもキリスト教の中にとどまることはできない、支配から完全に逃れたいならば。

もちろん、今、考えると、そうではないキリスト教との関わりが、宗教との関わりがあるのかもしれない。

そう、他の人にはあるのかもしれない、それは否定はできない。

けれども、私についてはそうではないのだ。

だから、O先生は端的に、はっきりと、間違えようもないように言ったのだ。

それでも、私は、心のどこかで抵抗していた。

キリスト教との関係がプッツリと切れたとしても、そうだ、イエスキリスト教は違うのだ、これからは、自分をクリスチャンではなく、イエスチャンと呼ぶことにしようと思っていた。

けれども、イエスキリスト教を完全に分けようとするその試みもまた、無理な話であったのかもしれない。

何より、私の動機は、どんな形であれ、少しでもキリスト教に関係のあることの中に留まりたいというものであったから。

そうして、その動機は、きっと支配者から入れられた思いなのだ。

その臍の緒のようなものを真っ二つに切ってしま分ければ、完全に楽になることはできないんじゃないかと思い詰めてもいた。

私は、何週間もこのことで苦しんだあげく、ある日の夜、ずっと使ったこともなかった携帯の電源を入れた。

何を考えることもなく、電話番号を押していく。頭ではもうすっかり電話番号を忘れているつもりだったが、不思議なことに指先は勝手に動いていく。

呼び出し音が数回なった。

その時になって、私はお願いだから出ないでくれという矛盾した思いが頭をよぎった。

けれども、もう手遅れだった。

「もし、もし、神崎さんなの?」

「…」

次の言葉が出てこない。

「ずっと待っていたのよ、あれからずっと」

もう数年が経っていた。それなのに。

「うん」

ようやく絞り出すように声を出した。

「うん」

向こうもうなずきの言葉だけ繰り返す。

「私は、私は…キリスト教からも、神様からも、イエスからも…離れたんだ」

沈黙があった。どんなことを言われるのか、断頭台に立っているようだ。

「そんなこと関係ないわ」

「関係ない?」

ホッとしながらも、予想外の言葉に体が震える。

「今、どこにいるの?これからでも、会いましょう」

藤堂さんは静かにそう言った。

催眠の現象学98 害にならない宗教とは

宗教の毒というのは、排他性であると思います。

裏返せば、この宗教が絶対で、この宗教を信じなければ救われない、滅びるといったものです。

 

宗教というのも、ひとつのナラティブ(物語)です。

そうして、ナラティブというものは人を楽にしてくれる、幸せにしてくれるものです。

だから、宗教に入る人は全て、これを信じたら自分は楽になる、幸せになると思って入るのでしょう。

宗教というのは、その思いに応えてくれるものがあることは否定できません

 

私も若い時に信じ、洗礼を受けた時には、世界が違って見えて、心がホッと楽になり、幸せな気持ちになったことを、今でもまざまざと覚えています。

そうして、信じ続ければ、そういう幸せを永遠に味わい続けることができるのだと、教えられ、自分でもそう思っていました。

 

しかし、それは長続きしませんでした。

 

どうしてでしょうか?

 

信じれば信じるほど、むしろ、逆のありさまになっていったのです。

 

それは、最初に言った、排他性という毒のためです。

 

これだけが正しい、素晴らしいというのはそれにとどまらないのです。

返す刀で、必ず、反対の、それ以外は間違っている、滅ぶべきものだという方向に振り子は揺れるのです。

そうして、そういう思いは、心を歪ませて、幸せを吹き消すものです。

 

今でも思い出すことがあります。

 

ある教会での出来事です。

そこは、預言(神からの言葉を受け取る奇跡的な能力)を重んじる教会でした。

私が親しくしていた夫婦の子供が預言を受けたということで、小学生ぐらいのその子が前に出て行って、語りました。
「主は言われる、滅びるぞ、滅びるぞ。私を信じないものは皆滅びる。終わりの日に、私を信じないものは皆、滅びる。私は決して容赦をしない」

皆は、ハレルヤと叫び、拍手をしていました。

 

このようなことはよくあることでしょう。

だから、害にならない宗教があるとすれば、排他性を捨てた宗教でしょう。

つまり、信じても信じなくても、例外なく全ての人が救われる、いやもう救われていると宣言する宗教です。

そういう宗教ならば、害をもたらすことはありません。

けれど、そういう宗教、そういう信仰はまれであることは確かです。
なぜなら、人は特別なものになりたいために宗教を信じるのであって、信じなくても誰でも救われるのであれば信じる必要性を感じないからです。

でも、そういう宗教はあるだろうし、どこにもそういう信仰を持っている人はいるだろうと思います。
だから、一概に、宗教も信仰も否定はできないのです。

けれども、このことは宗教に限ったことではなく、思想でもスピチュアリズムでも心理学でも科学でも、同じことなのかもしれません。

催眠の現象学97 心に何でも聞く

最近は、何でも心に聞くようになってきています。


例えば、モーニングルーティーンとして、以前は、朝起きると、支配と邪魔の排除から始まり、マインドフルネス瞑想、自己催眠、浄心呼吸+発霊法、セルフレイキとやっていたし、やらなければ気が済まなかったのですが、

この頃は、支配と邪魔の排除以外は、何をどれぐらいやるのと聞いて、それだけをやっています。

すると、明らかに、気持ちがいいようです。

他のことも、例えば、食べるもの、読む本、飲むサプリなども心に聞くようになってきています。

前は、これがいいという情報を読んだり、聞いたりすると、自分に何がいいか、それなりに考えて、そうして、毎日同じようにできるようにルーティーンを組み立てていました。

そうして、その頃は、心に聞いても、「自分で考えて決めたらいいよ」と言われることが多かった気がします。

ところが、今回、調子を崩した経験を通して、自分でいかに慎重に考えたとしてもその自分の判断がいかに当てにならないか、思い知りました。

考えるという時に、基準となるのは科学的かどうか、人が試してみてどうかなどですが、いかに科学的であっても、また他の人に合っていても、また、自分に合うかどうかはわからないのです(だからと言って、科学的であること、また評判を無視するわけではなく、それらはただ参考に過ぎないということです)。

究極のところ、私のことは私の心にしかわかりません。

また、私は、毎日、同じことを変えずにやり続けたいと思っている(強迫性パーソナリティ)のですが、

これもまた、心と体の調子は絶えず変わるので、昨日、自分にとって良かったことが、今日の自分にいいかもわからないのです。

今日の、あるいは今の自分にいいことも、自分の心に聞いてみないとわかりません。

ただ、以前に、心が自分で考えて決めたらいいと言っていたこともその時の私には適切な言葉だったようです。

その時の私は、キリスト教の影響で、心=神様と捉えがちで、心の言うことは神様の言うことのように、全部、従わなければならない、従わないと悪いことが起きるとどこかしら思っていたからです。

けれど、時至って、そんなことは全くないと分かり、そんな今の私だからこそ、今度は心に何でも聞くことの大切さがわかったのかもしれません。

黎明〜鬱からの回復 71 逃れ道

そのうち、私は、O先生の有料動画を見るようになった。
その頃は、ツィッターでO先生に質問することができた。みんな、思い思いの質問を投げかけていた。もちろん、時間の関係上、全部取り上げられないにしても、何回も書いていれば取り上げてもらえるようだった。

キリスト教を卒業したとは言え、そして、キリスト教からの邪魔と支配の排除を毎朝しているとは言え、まだ、うっすらと神の存在を信じている節が自分の中にあった。

夢の中でも、教会の場面を見ることが多くある。

教会で親しかった人たち、そうして光が夢の中に出てきて、私のために熱心に祈っている(不思議にも、藤堂さんは出てこなかった)。

その祈りの声は、どんどんと大きくなっていき、教会堂に高らかに響く。

私はみんなに見つからないように会堂の隅にいるのだが、ついには耐えられなくなってひょっこりと姿を現してしまう。

みんなは、そして光さえも、椅子から立ち上がって私の方に駆け寄る。

「よく戻ってきたね」

みんなの顔を見ると、目に涙を浮かべている。

「神様も私たちもずっと忘れないで、ずっと祈って待っていたんだよ」
懐かしい顔の兄弟姉妹たちが言う。

「ともちゃん、今までのことを悔い改めて、そしたら大丈夫。また一緒にやれるよ」
とどめを刺すように、光が私の顔をまっすぐに見て言う。

けれど、私は、私は戻れない。
そのことを伝えなくちゃ。
伝えなくちゃいけないけれど、唇が動かなくて、汗だけが噴き出る。

そうして、汗をびっしょりかきながら目を覚ます。

そんな夢が何十度、何百度となく繰り返される。

そうして、ぐるぐる頭の中で、ある思いがめぐる。
『もしかして、神を神ではなく、キリストが祈っていたように父と捉えるならば、まだキリスト教の中にいられるのではないだろうか?
彼らと、光とまた手をとって、和解することもできるのではないだろうか?』

O先生の本には、私たちが神と呼びかけると、支配者のネットワークに繋がってしまうと言うことが書かれていた。

ならば、父と呼び掛ければ、大丈夫なのではないだろうか?

そう思ったら心に聞いてみればいい、けれども、私はこのことを心に聞くことを恐れていた。

けれど、この問いをしまっておくこともできなくて、ある日、ツィッターで質問してみたのだ。

キリスト教では、神と人との関係を父と子の親子関係に捉えますが、これはキリスト教の限界でしょうか?」

そうだよと言う答えを期待していた。

もし、そういう答えなら、私は限界があることを承知の上で、それでもまだキリスト教の中にとどまることができる。

けれど…

催眠の現象学96 再び心の癖の治療

ここのところ、ずっと調子が悪く下降気味で、ついにはお迎えが来るんじゃないかと思っていました、まあ、半ば冗談ですが。

いろいろやってはみるんですが、どうにも調子が上向きにならないんです。

果ては、寝込んだ状態になってしまいました。

 

何だか頭に靄がかかった感じで、体はふわふわして力が入らない感じです。

 

自分で自己催眠なり、セルフレイキをして耐え忍んでいましたが、夜は中途覚醒してしまい、何とかまた眠りにつくと、今度は早期覚醒するんです。

 

お医者さんにかかればいいと言われるかもしれませんが、アレルギーがあって体が薬に過剰に反応するので、滅多に医者にかからないんです。

だから、自分で何とかしようというのが、いつの間にか習い性になっていました。

 

けれど、このままではまずいというところまで来ていて、どうしようかと。

そこで、浮かんだのが、友達にやってもらって、霊気による心の癖の改善(性癖改善)でした。
遠隔でやってもらっても、身体中に帯電した毛布をかけられたようなそんな感覚になって、楽になるんです。
「直接すると、もっと心地いいよ」
そんなふうに言われたことが脳裏をよぎったんです。

実際会って、直接やってもらったら、何か変わるかもしれない。

と言っても、友達は遠方に住んでいて、おいそれとは行けないし、弱っている今の状態ではなおさらです。

それでも、もう自分でできることはないと思って、頼るならこの友達だと思って、行く準備を始めました。

ところが、認知機能が下がっているのか、新幹線の予約で、フィッシング詐欺にあってしまいました。

けれども、朦朧とした頭で、カード会社に連絡し、今あるカードを止めてもらい、カードを再発行する手続きをしました。

それでようやく、新幹線を予約できました。

春のこの季節で、新幹線は行きも帰りもいっぱいで、予約するにはギリギリのタイミングでした。

ところが、その後、カード詐欺の件があったからなのか、さらに具合悪くなってしまい、そもそも、この状態で行けるのかも怪しく思われたんです。

そこは、何とか、自己催眠とセルフレイキで自分を整えようと。

そして、日曜日、出かけたんです。

駅に着いて、約束の改札口に行くと、友達が待っていました。
頭に靄がかかっているせいなのか、友達の姿も朧に見えます。

とりあえず、食事に行こうと歩き出しました。

ところが、私は雲の上を歩いているようで、足が地面を踏んでいるとは思われません。

友達が予約してくれた和食のお店に着いて、注文してきた和食膳を食べたのですが、自分が食べ物を食べている実感がありません。
我ながら本当に大丈夫かなと思ってしまいました。

食べるのに時間がひどくかかってしまいましたが、ようやく食べ終えました。

そうして、友達はそこで私に心の癖の改善をしてくれたのです。

そうです、そこは個室になっていて、他の個室からの音は聞こえましたが、霊気をしていても特に何とも思われなかったのです。

椅子に座って、最初は、短い時間、普通のレイキをしてもらって、その次に、心の癖の改善をしてもらいました。

目を閉じているのでわかりませんが、触れられている感触はないので、頭に手をかざされているようです。

頭頂から尾骶骨まで、エネルギーが通る感じがして、体が前後左右に揺れたり、時折、ビクッと動いたりします。

普通の催眠のトランス状態とも、他のレイキを受けた時とも違う、体が帯電して、その度合いが加速度的に増加している、でも心地良い感じです。

あまりに心地よいので、「終わりました」と言われた時、ああ、ここから出たくないなと非常に残念な気持ちになったのを覚えています。

目を開けると、部屋の明かりがやたらに眩しく感じました。

最初はずっと目を閉じていたからなのかなと思いました。

けれど、瞬きをして、目が慣れると、それまで目を覆っていたヴェールがなくなっているのがわかりました。

やたらに、ものがクリアに見えるのです。

友達の顔もおぼろだったのが、くっきり見えて、私の知っている友達の顔になりました。

そうして、店を出て外を歩いてみると、それまで、雲の上を歩いているようでふわふわとしか歩けなかったのが、普通に早く歩けるようになっていたんです。

何だか、墓の中で死にかけていたのが生き返ったような、夜が昼になったようなそんな感じが強烈にしたのを、心と体に刻み込まれたように覚えています。