そのうち、私は、O先生の有料動画を見るようになった。
その頃は、ツィッターでO先生に質問することができた。みんな、思い思いの質問を投げかけていた。もちろん、時間の関係上、全部取り上げられないにしても、何回も書いていれば取り上げてもらえるようだった。
キリスト教を卒業したとは言え、そして、キリスト教からの邪魔と支配の排除を毎朝しているとは言え、まだ、うっすらと神の存在を信じている節が自分の中にあった。
夢の中でも、教会の場面を見ることが多くある。
教会で親しかった人たち、そうして光が夢の中に出てきて、私のために熱心に祈っている(不思議にも、藤堂さんは出てこなかった)。
その祈りの声は、どんどんと大きくなっていき、教会堂に高らかに響く。
私はみんなに見つからないように会堂の隅にいるのだが、ついには耐えられなくなってひょっこりと姿を現してしまう。
みんなは、そして光さえも、椅子から立ち上がって私の方に駆け寄る。
「よく戻ってきたね」
みんなの顔を見ると、目に涙を浮かべている。
「神様も私たちもずっと忘れないで、ずっと祈って待っていたんだよ」
懐かしい顔の兄弟姉妹たちが言う。
「ともちゃん、今までのことを悔い改めて、そしたら大丈夫。また一緒にやれるよ」
とどめを刺すように、光が私の顔をまっすぐに見て言う。
けれど、私は、私は戻れない。
そのことを伝えなくちゃ。
伝えなくちゃいけないけれど、唇が動かなくて、汗だけが噴き出る。
そうして、汗をびっしょりかきながら目を覚ます。
そんな夢が何十度、何百度となく繰り返される。
そうして、ぐるぐる頭の中で、ある思いがめぐる。
『もしかして、神を神ではなく、キリストが祈っていたように父と捉えるならば、まだキリスト教の中にいられるのではないだろうか?
彼らと、光とまた手をとって、和解することもできるのではないだろうか?』
O先生の本には、私たちが神と呼びかけると、支配者のネットワークに繋がってしまうと言うことが書かれていた。
ならば、父と呼び掛ければ、大丈夫なのではないだろうか?
そう思ったら心に聞いてみればいい、けれども、私はこのことを心に聞くことを恐れていた。
けれど、この問いをしまっておくこともできなくて、ある日、ツィッターで質問してみたのだ。
「キリスト教では、神と人との関係を父と子の親子関係に捉えますが、これはキリスト教の限界でしょうか?」
そうだよと言う答えを期待していた。
もし、そういう答えなら、私は限界があることを承知の上で、それでもまだキリスト教の中にとどまることができる。
けれど…