宗教の毒というのは、排他性であると思います。
裏返せば、この宗教が絶対で、この宗教を信じなければ救われない、滅びるといったものです。
宗教というのも、ひとつのナラティブ(物語)です。
そうして、ナラティブというものは人を楽にしてくれる、幸せにしてくれるものです。
だから、宗教に入る人は全て、これを信じたら自分は楽になる、幸せになると思って入るのでしょう。
宗教というのは、その思いに応えてくれるものがあることは否定できません
私も若い時に信じ、洗礼を受けた時には、世界が違って見えて、心がホッと楽になり、幸せな気持ちになったことを、今でもまざまざと覚えています。
そうして、信じ続ければ、そういう幸せを永遠に味わい続けることができるのだと、教えられ、自分でもそう思っていました。
しかし、それは長続きしませんでした。
どうしてでしょうか?
信じれば信じるほど、むしろ、逆のありさまになっていったのです。
それは、最初に言った、排他性という毒のためです。
これだけが正しい、素晴らしいというのはそれにとどまらないのです。
返す刀で、必ず、反対の、それ以外は間違っている、滅ぶべきものだという方向に振り子は揺れるのです。
そうして、そういう思いは、心を歪ませて、幸せを吹き消すものです。
今でも思い出すことがあります。
ある教会での出来事です。
そこは、預言(神からの言葉を受け取る奇跡的な能力)を重んじる教会でした。
私が親しくしていた夫婦の子供が預言を受けたということで、小学生ぐらいのその子が前に出て行って、語りました。
「主は言われる、滅びるぞ、滅びるぞ。私を信じないものは皆滅びる。終わりの日に、私を信じないものは皆、滅びる。私は決して容赦をしない」
皆は、ハレルヤと叫び、拍手をしていました。
このようなことはよくあることでしょう。
だから、害にならない宗教があるとすれば、排他性を捨てた宗教でしょう。
つまり、信じても信じなくても、例外なく全ての人が救われる、いやもう救われていると宣言する宗教です。
そういう宗教ならば、害をもたらすことはありません。
けれど、そういう宗教、そういう信仰はまれであることは確かです。
なぜなら、人は特別なものになりたいために宗教を信じるのであって、信じなくても誰でも救われるのであれば信じる必要性を感じないからです。
でも、そういう宗教はあるだろうし、どこにもそういう信仰を持っている人はいるだろうと思います。
だから、一概に、宗教も信仰も否定はできないのです。
けれども、このことは宗教に限ったことではなく、思想でもスピチュアリズムでも心理学でも科学でも、同じことなのかもしれません。