家に帰ると、いつものように、『おかえり』という言葉もなく、夕飯の時間になっても食事の準備がされることもなかった。
ただ、テーブルにクラッカーが置いてあるだけだった。
ぼくはいつもなら不貞腐れ、自分の境遇を呪ったもののだが、左胸にあてたはまっちの手の温もりと心の底から何かが放射している感じがそんな気持ちを消していた。
『大人になるために、まともなものを食べよう』
ぼくは冷蔵庫を開けた。と言っても、あるのは卵、レタス、食パンぐらいしかなかったが、ぼくは、家庭科で習ったことを思い出して、不恰好なオムレツを作り、食パンの耳を切り、レタスを敷き、オムレツを挟んだ。
それから、やかんでお湯を沸かし、カップにティーバッグを入れ、お湯を注ぎ、オムレツサンドと一緒にテーブルに置いた。
「いただきます」
シーンとした家に声が響く。
それからひとりの食事をとった。なぜかとてもおいしく感じた。自分で作ったからかもしれないし、ただお腹が空いていたからかもしれない。
心も身体も満足して、それから、シンクに食べ終わった皿とカップを持って行って、スポンジに洗剤をつけて洗う。
キュッキュッといい音をたてて、キレイになっていく。それを見ていると心地よさに包まれていく。
そうして、タオルで拭いて、かごの中に入れた。
『ぼくは大丈夫』
そういう気持ちが心の中から湧き上がる。
『ぼくはどうしちゃったんだろう?』
一方、そういう思いも心をよぎるが、たちまち消えていく。
…
今日のはまっちとの最後のやりとりを思い出す
「明日はうえっちの誕生日ね」
「一応、そうだね」
「一応って何よ」
「いつも実感がないから」
「わかるわ」
「うん」
「盛大にお祝いしなくちゃ」
「いいよ、今日会えただけで十分だよ」
「今日はわたしの誕生日、明日はあなたの誕生日」
どきっとする、あなたなんて言われたのは2回目だ。
「そうだけど」
「明日は、学校から帰ったら急いでわたしの家に来て」
「えっ、家に?」
「そう」
「大丈夫?」
「明日は、おじいちゃんの法要でパパもママもいないわ」
「はまっちは行かなくていいの?」
はまっちはそれには答えなかった。
「4時にね、待ってるから」
「…行くよ」
ただでさえあんなことがあったのに、もし見つかったら大袈裟に言わなくてもぼくは殺されないだろうか、はまっちの父親の額に浮き出た青筋を思い浮かべた。
でも、ぼくの心は大丈夫と言っているような気がしてならなかった。
…
そんなことを思い出して、ぼくは部屋に戻って教科書やら参考書を開いて勉強し始めた。中学受験をするわけでもないのに、こんなことをして何の意味があるのかわからない。わからないが、とても勉強したくてたまらなかった。父も母のことも頭から消えていく、ぼくは難しい算数の問題に没頭していった。