無意識さんとともに

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催眠の現象学155 言葉と物語を超えて

フォーカシングを続けていますが、だんだんと変化してきたように思います。
なんというか、自分の中の、あるいは外であってもいいのですが、その言葉以前の、言葉にならないもやもやしたものに少しずつとどまるようになってきているのです。

 

以前、そこに触れても、すぐにそれを言葉にしたい衝動が湧いてきて、そのうっすらしたわけのわからないものを言葉にして、何度もそれに返るにせよ、言葉が展開して何かが変わっていくことに気持ちがとられがちだったんです。

それが、このもやもやしたものにじっととどまることができるようになってきています。

そんなことができて何かいいことがあるのって思われるかもしれません。

 

まあ、外面的には、ようやく、ひとりでフォーカシングする場合でも、キーボードに向かって書きながらというのではなく、思いの中でフォーカシングできるようになっているので、そういう意味での進歩も自分に感じられます。

でも、そういうことだけではなく、この言葉以前の何かに触れることって、すごいことだなあという感じに貫かれているんです。

私たちは、普通、言葉というサングラスをかけて全てを、世界も人も自分さえも見ています。

さらに、その言葉が日本語であったり、英語であったり…言葉が違えば、サングラスも形も色合いも違うので、すべてが違って見えることでしょう。

ところが、この言葉以前の何かに触れるっていうことは、サングラスをかけないで見るということを意味するのかもしれません。

言葉を通さずに、ありのままを見る、

それって、言葉がつくる物語を出たところで、本当に客観的な、いや、主観も客観もまだないとものに触れるということなんです。

もちろん、言葉と言葉が生み出す物語は大切なもので、人にある種の方向づけを与えるものですが、
だからこそ、制限も与えますし、言葉と物語はそれそのものではないのです。

全ては物語で、それそのものなんてどこにもないんだ、
人は、ただ見たいように、つまり自分の物語のままに、世界も人も自分も見るだけだということができますが、

いやそうではなくて、言葉と物語以前のものがあって、それに触れることができて、そこから初めて言葉と物語をそれにぴったりするように使うことができる(言葉と物語に閉じ込められずに)というのはなんという驚きでしょう。

しかも、それが特別な、覚者とか聖人とかだけではなく、ひとりひとりが誰でも自分で自分なりに、確かめることができるフォーカシングという方法があるんです。