(この文章は、ある程度、トラウマから自由になった人のためのものです。まだ、トラウマを抱えて苦しんでいる最中の人は、読むのをお勧めしません。まず、トラウマの治療が大切です。)
「心よ、支配者からの支配と邪魔を取り除いてください」と心に支配の邪魔と排除をお願いすることは、特にトラウマを抱える人にとっては、命綱です。
そして、この支配と邪魔の排除は、O先生によれば、一生続くものということです。
ところで、トラウマから自由になっても、そして、続けて毎日、支配と邪魔の排除をし続けていても、何かしら支配者への恐れというものは残るのかもしれません。
『あの人は支配者でないかしら』、そんな思いが心をよぎることがあります。
そうして、支配者から逃げまくって支配者のいない世界に行きたくなってしまうということもあるかもしれません。
あるいは、人との関係がこじれると、お互いがお互いを支配者だと裁く、そんなこともありえます。
けれど、そんな時に思い出して欲しいのは、そもそも、支配者という概念もまた、ナラティブ(物語)のひとつだということです。
そうして、このナラティブは、内なる支配を外在化して、支配者というものを置くことで、内なる支配から自由になるためにあるのです。
ですから、これも物語のひとつと思ってみると、この物語にも適用範囲があるのかもしれません。
トラウマを抱えて今、苦しんでいる人にとっては、この支配者というナラティブはまさに福音です。
なぜなら、自分を責めてやまない自責が、支配者というナラティブで打ち消されるからです。
ところが、ある程度、トラウマから解放された人にとっては、同じ支配者というナラティブは足枷になることもあるのかもしれません。
トラウマから自由になって、支配の邪魔と排除をし続ける人も、内なる支配者が残り続けるからです。
それがあることは、支配者への恐れというかたちで判断できます。
支配者への恐れがあるならば、そこには、内なる支配者があるのです。
そうして、内なる支配者とは、超自我とか、フォーカシングで言えば、批評家と呼ばれるものです。
これは、「お前は足りない」とか「何をやってもだめだ」とか「結局無駄じゃないか」とかダメ出ししてくるものです。
この声は、外なる支配者から入れられたものでもありますが、それを受け入れた自分の一部分でもあります。
だから、外からの影響を断ち切っても、トラウマを除去しても、完全にはなくならないものなのかもしれません。
この内なる支配者、批評家を、フォーカシングでは扱うことができるのです。
この批評家さえも、自分の一部として扱っていくと、この批評家自身が恐れを抱いていることがわかるのです。
例えば、批評家は、私が怠けてしまったり、警戒を怠ったり、規則を守らなかったりして、私がダメになることを、人から後ろ指をさされることを恐れていたりします。
そういう批評家にフォーカシングしていくと、批評家もまた、私の役に立ちたいと思っていることが、アタマや理屈ではなく、からだや実感として、腑に落ちます。
その時に、内なる支配者、また批評家もまた、私を責めるものではなく、そこに封じ込まれたエネルギーとして変貌を遂げます。
そうして、私の支配者への恐れは拭い去られるのです。
もはや、私は、誰を支配者なのか考える必要は一切、なくなるのです。