無意識さんとともに

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AとBとC 第二十五回〜夢想2

A B C1

 

キルケゴールは、自分が神に呪われていると信じていた。そうして、33歳、つまりイエス・キリストが亡くなった歳までに自分が亡くなると信じていたのだ。事実、彼の兄弟はその通り、何人も33歳までに亡くなっていた。

 

彼は父からある事実を聞かせられた。

父は富裕な商人だったが、子供の頃に羊飼いをしていて、ある日、ユトランドの荒野で飢えと孤独のあまり、神を呪った。

そして、その贖罪のために、キルケゴールを神学校に行かせて牧師にしようとしたらしい。

このことを聞いたキルケゴールは、心の底から動揺し、放蕩の生活に入る。

後に、表面上はこの「大地震」を克服したが、心には憂鬱という深い亀裂が走っていて、自分は神に呪われていて33歳までに亡くなるという思いは消えることはなかった。

 

レギーネとの恋愛においてそれらは消えたかに思えたが、一時的なものでしかなかった。

そして、婚約が成立したもうすぐ後から後悔に苛まれることになる。自分のこの呪いと憂鬱によって、レギーネをも不幸にしてしまうのではないかと。

 

思いあまったキルケゴールは、婚約を破棄することを決意する。

しかし、彼女のショックを和らげるために、自分が本当は彼女を弄んだドンファンであり、悪者であることを示すために、わざわざ匿名で、しかし彼女にはわかるように、「誘惑者の日記」を出版したというわけだ。

 

あまりに手が込んでいるコメディにしか思えない。

 

そのキルケゴールが書いた「哲学的断片」、そこに私は救いを見出そうとしていた。

それは、「神の全能の愛」という言葉だった。神が全能なのは、力とか正義とか知恵においてよりも愛において全能である、ならば、神の愛は、どんな悪者も善人に作り変え、どんな罪人も義人に作り変え、この自分の惨めな地獄のような状態をも光り輝く天国のような状態に作り変えることができるのではないか?

信じるだけで、神はそうしてくれるのではないか?

 

これよりも強力な思想、究極の信仰があるだろうか?

 

愛は勝つ」という歌があったが、神という愛は、本当に全能ならば、こんな罪人の私に、最終的に必ず打ち勝つのではないか?

 

藁にもすがる思いで、この神という全能の愛とやらにすがり、信じようとしてみた。

しかし、自分の惨めな現実は何も変わらない。

まさに、キルケゴールのコメディ以上のコメディだった。

もちろん、このコメディを打ち消す理屈はいくらでも考え出すことはできた。

最終的に打ち勝たれるのであって、今はまだその時ではないとか、信じ続けることが大事だとか、目に見える現実は真実の姿ではない…などなど。

 

けれど、そんな理屈をいくら並べ立てたところで、全部嘘だという気がしてならなかった。あるいは、過去の、またこれから経験するだろう素晴らしく高揚させるだろう神秘体験や奇跡と言われるものを思ってみたところで、自分の惨めな現実が1ミリも変わるものではないということが嫌というほど分かってしまった。

 

結局、信仰とは、神秘体験や奇蹟や、あるいは聖書の言葉や豪華絢爛たる大聖堂のような進学を持ち出して、自分を説得しようとするコメディに過ぎないのだ。

 

そう分かってしまった時に、私は「哲学的断片」を投げ出した。部屋はゴミ屋敷のように、ありとあらゆる書物が散らばっていて、寝るところもないありさまだった。私はそういうゴミの中で、自分が天国で微笑む天使であるかのような夢を、限りなくコメディであり同時に限りなく悲劇的な夢を見ていたに過ぎない。

 

私は、フランス語のテキストやペンが置いてある机に、お構いなしに突っ伏してしまった。涙さえ出なかった。絶望というにはあまりに絶望すぎて、それが絶望であることさえ感じることもできなかった。

 

そうして、いつのまにか眠りに落ちていた。

眠りに落ちて、もうひとつの夢ならぬ夢の中に入っていった。