統一教会のことが、日々、話題になっている。
そのようなカルトを見ると明らかだが、支配者は人を、怒りと性欲と万能感の罠で捉えようとする。
怒りについては、他の記事に詳しく書いたが、怒りは罪だという嘘を吹き込み、本来、怒りという支配者との絆を断つためのものを、支配者を含めて他人に、あるいは、自分に向けさせ、裁き、罪悪感でぐるぐる巻きにしようとする。
性欲については、性欲は罪だという嘘を吹き込み、本来、性欲という生きる力の源を、性的なものを一切禁止することで、あるいは性的に脳内でか直接に虐待することで、自分は汚れているものだというだという思い込みを持たせ、裁き、罪悪感で動けなくする。
なぜ、性的なものを禁止することが自分は汚れているものだということになるのか?
それは、禁止されればされるほど、脳内で性的妄想は広がるからである。自分がどんなに外側を飾ろうとも、内側はそういう思いで溢れかえっていることは自分が誰よりも知っている。そして、自分で自分を罰するようになる。
しかし、本来、性欲もまた、怒りと同様に生きる力である。性欲は罪であるというのは、支配者の嘘である。
万能感で捉えるというのは、この2つとは違っている。
なぜなら、自分はすごい、何でもできるという万能感は一見良いものに見えるからである。
けれど、ほめ殺しということを考えてみると、万能感の真実がわかるかもしれない。
支配者は人をほめて殺すのである。
人は支配者の賞賛を浴びると、酔わされてしまい、麻薬中毒者のようにもっともっとと賞賛を求めて離れられなくなってしまい、支配者に取り込まれてしまう。
もちろん、賞賛がすべて悪いと言っているのではない。普通の人の賞賛は問題ない、外面と内面が乖離していないから。
ところが、支配者の賞賛は、外面と内面が乖離している、言い方を変えれば、99パーセントの真実らしさに、1パーセントの毒が仕込んである。
毒がほとんどならば誰も毒を喰らうものなどいない。
けれど、毒が1パーセントならば、人はおいしい真実らしさに引かれて、1パーセントの毒を喰らい続けるのである。
もっとも、こういう支配者の罠を恐れる必要もない、私たちが心の声に聞き続けるなら、何事もないように、私たちは知らずして支配者の罠をくぐり抜け、それに煩わされることもない。