支配者の光の人への攻撃は二つの方向でなされると書いた。つまり、罪責感を持たせることとほめ殺しである。
ほめ殺しとは、言い方を変えれば、支配者が光の人を聖人の道に誘惑するということなのである。
光の人は、聖人ではないとはよく言われる。けれど、こんなことが言われるということは、光の人が聖人の道に誘い込まれることが多いということを表しているのかも知れない。
聖人の道とは、光の人が自分を犠牲にして、他の人たちを救おうとする十字架の道である。そうして、支配者はまさにその道こそが光の人の使命だというふうに吹き込んでくる。そして、それこそが、光の人が光を世界に輝かせる道なのだと欺いてくるのである。
けれど、それは全くの嘘偽りである。
光の人がそういう嘘偽りを信じ込まされて、人々のために特大のゴミ箱になり、果ては十字架の上に自己犠牲を全うするならば、確かに、支配者は喜び、多くの人が光の人を後々の時代まで褒めたたえるかも知れない。
けれど、そうするならば、光は輝かず、支配者が神として崇められ、ますますたくさんの人は支配の中に入っていき、光の人が自分の人生を生きないのみならず、光の人に誘われる多くの人も自分の人生を打ち捨てて、自己犠牲に生き、支配者の人生を生きるのである。
残念ながら、光の人であるイエスが「私たちの罪のために、私たちの身代わりとして十字架にかかった」のは後から支配者があとづけた大嘘である。
イエスは、自己犠牲をして他の人の人生を歩んだのではない、光の人として自分の人生を歩んで光を輝かせたのである。
人は人の罪を負うことはできないし、人の人生を身代わりに生きることなどあり得ない。
そもそも罪意識が支配者に吹き込まれたもの、身代わりに生きようとすることは支配そのものなのである。
光の人は、決して聖人などではない、自分の人生を生きることで光を輝かせるただの普通の人である。それが、いわゆる普通とは違っていても、それもまた種類の違う普通なのである。
罪責感を退けて、人の人生ではなく自分の人生を生きて、光を輝かせよう。