以前は、自分が今にも爆発しそうな火山のように感じたものだ。心の奥底に、マグマが燃えたぎっていて、いつでも吹き出せる状態だった。
そうして、親の一言で、自分がどんなに抑えようとしても、もうマグマが地の底から身体の中を通って、勢いよく溢れて、爆発する。
ただし、爆発するちょっと手前、いつも、『何で私はこんなことしているのかな?」と思う瞬間があった。何だか、自分が演技しているような感じがあった。
ところが、もうマグマが噴き出して爆発してしまうと、そんな思いは吹き飛んでしまい、止まらない。
怒りのマグマは相手に向かい、そして返す刀で自分に向かい、破壊し尽くす。
それからは、『なんて自分は惨めな悪人なんだろう』という反省が延々と続き、親鸞の「心は蛇蝎の如くなり」とか聖書の「心は何よりも陰険で直らない」とかいう言葉が浮かび、果てには「私は惨めな罪人です、自分で自分のしていることがわからないのです」と神に祈って赦しを乞う、その繰り返しだった。
…
今、思うと、その嵐の前の静けさは、何でという思い、演技している感じは自分の本来の心の感覚であり、こういう発作のプロセスが支配者に支配されてやらされているという気づきだったように思う。
支配者とのつながりを断つための怒りが、相手に向かい、自分に向かい、自分を断罪し、責めるその繰り返し。
けれど、あの気づきを認めるならば、私は怒りを支配者とのつながりを断ち切ることに用いて、そこから解放され自由になれるのだ。
私たちは、自分は自分だと思っているが、その実、支配者に支配されてやらされている、そのやらされている自分を自分だと思い込まされている、
そこから、怒りを用いてきづなを断ち切り自由になるならば、本当の自分に帰っていくことができる。