ぼくは、大きなテーブルを挟んで、男の人と差し向かいに座った。
「私は、塾も経営している藤堂と言います」
『藤堂?』、一瞬、頭の中で何かがカチリと音がしたが、ぼくは気にしなかった。
「この塾は特待生の制度があると聞いたのですが」
ぼくは喉がカラカラになるのを感じた。
「そうですね、事情がある方には入学金と授業料を免除する制度があります。えーと、ちょっと待って…」
立ち上がって部屋を出ていき、それからペンと何かの用紙を一枚持ってきた。
「これに記入していてくれるかな」
名前、中学校名、学年、住所など、基本的な情報を書き込む用紙だった。
「それから…」
また、言いかけて出て行った。今度は、氷と飲み物を注いだコップをふたつ、持ってきた。
「どうぞ」
そう言って、ひとつのコップを差し出した。
クリスタルガラスのようなコップに、琥珀色の液体がなみなみと注がれていた。
口を近づけると、うっとりするような香気が鼻をかすめた。
喉が渇いていたので、ごくりと飲むと、口から喉へ、喉から胃へと、爽やかで豊かな香りの液体が染み渡っていった。
『こんなに美味しいアイスティーは飲んだことがないや』
ぼくは落ち着いてリラックスしたのか、前にいる藤堂さんを見つめた。
「それで、よければ、どんな事情があるのか聞かせてくれるかな」
ぼくは、最初は大雑把に事情というものを話した。藤堂さんは、ぼくの話を繰り返しながら、途中、短い質問を挟んだ。ぼくは、知らない間に、スルスルと、学校のこと、クラスで無視されていること、授業に出ないで文芸部の部室にいること、家のこと、母のことまで、これは話すまいと思っていたことまで、話してしまった、何の不快感もなく。
『どういうことなんだろう、これって?』
「そう、それで、君はもう崖の上に追い詰められて、あとは自分が飛び降りるか、世界が滅びるしかないって気持ちに駆られているのかもしれない」
藤堂さんは、先ほどの笑顔とは打って変わって、すごく苦しそうな顔をして言った。いや、ぼくの顔もそんな苦しい顔をしているような気がしてならない。
「はい」
「でも、本当は道が続いていて、この道を前へ前へ、自由にのびのびと歩みたいと、そしてどこかで他の道と交わるのを見たいと思い、また、そのための力と能力が自分にもうあると思っている、そうじゃないだろうか?」
「はい」
ぼくは頷くしかなかった。
「実は、私は、催眠療法を研究しているのだが、今、ちょっと君に簡単な催眠をかけても構わないかな?」
ぼくは、催眠と聞いて、中1の初めに佐藤さんの家でした催眠術ごっこを思い出した。『あれはこれとつながっていたのか』
「はい」
「では、イスに深く腰かけて、両手は足の膝か腿の上に置いて、目は軽く閉じてくれるかな?」
ぼくはうなずいた。
「吸う息、吐く息に注目している間に、
あなたの意識は、私の声を聞くことができて、
あなたの無意識は、床に足がしっかりとついていることを感じることができます。
あるいは、
あなたの無意識は、私の声を聞くことができて、
あなたの意識は、床に足がしっかりついていることを感じることができます…」
ぼくは、眠りのようで眠りとも違う状態に、深く落ちていった。