そんなふうに、中学校での日常は何だか面白おかしくすぎていったが、ぼくははまっちのことを忘れたわけではなかった。いつも心の中央にあって、はまっちのことを考えない日はなかった。
ある日、学校から帰ると、いつも通り、母は寝込んでいた。ぼくは、自分の部屋で英語の宿題をしていた。単語をノートに書いて練習していると、いつの間にか、外は暗くなっていた。
襖一枚隔てている部屋にいる母は起きてこない。おそらく、今日もぼくが夕食を作ることになるだろうと思っていた。ちょっと疲れているし、冷凍食品の餃子を焼いておけばいいかな…そんなことを考えていると、台所の黒電話がなった。
なんだろうと思って、あわてて部屋を飛び出して、電話に出る。
「もしもし上地ですが…」
「うえっち?」
「はまっち?」
ぼくは声をひそめた。母が寝ていてよかったと胸を撫で下ろした。
「どうしたの?元気?」
「うん、元気よ。うえっちに会いたい」
胸がキュンとなる。
「ぼくも会いたいよ」
「ほんと?」
「ほんとに決まってるよ」
「だったら、今度の日曜日、清瀬中央公園に来て」
「行くよ、何時にどこに?」
「2時に、あのベンチに」
あのベンチとは、はまっちの誕生日にあの絵を渡したベンチだ。
「わかった、白馬にまたがって、お姫様を迎えに行くよ」
「友達と一緒なんだけど、いい?」
ぼくはちょっと驚いて、思わず声がくぐもった。
「えっ」
「怜が、藤堂さんという子がうえっちに会ってみたいと言っているの」
怜と言っているっていうことは相当、親しいことが推測できた。ぼくは嫉妬を感じてしまったが、自分の気持ちを抑えて言った。
「いいよ」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
まだ、声がくぐもっている。
「はまっちに会えるんだからうれしいよ」
「わたしもよ」
その時、「誰と電話してるの?」という母の声が聞こえた。
「じゃあ、切るね」
「またね、その時」
受話器を置くと、ぼくはうれしいような、ちょっと悲しいような複雑な気持ちになった。怜って親しげに呼ぶ藤堂さんって、はまっちにとってどんな人なんだろう。何だかふたりだけの世界に異物が侵入してきたような痛みを感じてしまった、同時に自分の心の狭さに対する責めも湧き上がっていた。
母が起きて、引き戸をガラリと開けた。
「誰?まさか、あの女じゃないでしょうね?」
「違うよ!」
ぼくは即座に否定しながら、自分の部屋に走って逃げた。何だか、胸の痛みがますます鋭くなった。
そして、また机に座って、単語の練習を再開した。
気がつくと、strangerという語を何度もノートに書きつけていた。