H
授業が終わった教室で、わたしは、今、うえっちといる。
怜のパパが帰りの車を出してくれるまでのわずかな時間、怜と福井君がわたしに気をつかって、うえっちとふたりきりにしてくれたのだ。
うえっちと一緒にいた女の子もわたしを睨んでいたような気もするけれど、先に帰ったようだ。
うえっちは、一番前の右側、いつも福井君が座っているところに座っている。わたしはいつものように、その左側に座っている。
何を話していいかわからなくて、沈黙が続く。喉がからからに渇く。
U
ぼくは、はまっちの左側に座っている。
何だか、心がそわそわする。ここにいるはまっちは、ぼくの中の小5のはまっちと違ってもっとずっと大人に見える。まぶしくて直視できない。
けれど、はまっちの匂いは紛れもなく、はまっちの匂いだ。ぼくはその匂いで頭がぼうっとなって酔っているような気持ちになる。
頭を左右に振って、思い切って話しかける。
U
「久しぶりだね、はまっち、あれから…どうしてたの?」
そんな言葉しか出て来ない自分が歯がゆい。
H
「どうしてたって…そう、パパとママは別れて、クリスマスイブの日に前の家を出て…今は秋津駅近くのアパートに住んでいるの」
いきなり、そんなことを口にしている自分に驚いた。うえっちに言いたいことは、全然別のことなのに。
U
「そうなんだ、大変だったね」
ありきたりのことしか言えない自分を呪いたくなった。
H
「でも、今はもう大丈夫。怜のパパにカウンセリングしてもらって、ママもだいぶ元気になっているから」
何でそんなこと言っているんだろう。
U
「あっ、藤堂さんって」
どうも心にひっかかる感じがしたわけがようやくわかった。
H
「そう、無限塾って、怜のパパが経営しているの。そして、カウンセリングもやってるの」
話の方向を、今更、変えられない。
U
「そうなんだ、ぼくも藤堂さんに催眠をかけてもらったよ」
はまっちがちょっと怪しむんじゃないかと思いながら、恐る恐る言った。
H
「催眠療法ね、ママもしてもらっているわ」
このままじゃいけない。もう、怜のパパの車の準備ができてしまう。そうしたら、うえっちとふたりきりの時間は終わってしまう。何とか、言わなくちゃ。
「そうだ、次の塾の日、始まる前ちょっと時間ある、うえっち?」
わたしは、また何だか泣きそうな気持ちに駆られた。
U
「えっ、あるけど。何で?」
急に、はまっちはどうしたんだろう。
H
「そうなら、塾が始まる前に、ふたりで会わない?その日は、わたしも電車で来るから」
言えた。ようやくうえっちに会えたのに、わたしの望んでいるのはこんなことじゃないから。
U
「もちろん、いいよ」
はまっちはぼくに何を望んでいるんだろう、心臓がどきどきして止まらない。
「じゃあ、4時に塾の前で」
H
わたしは、そんな4年後を待ってはいられない。もううえっちと離れたくない。いっしょにいたい。
U
「はまっち、またね」
H
「うえっち、またね」
うえっちの『はまっち』という言葉を聞いただけで、もう涙が溢れ出してきた。わたしはうえっちに知られないように、足早に怜のところに駆け出して行った。