無意識さんとともに

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悔い改めと内省の違い

『人を殺さば』

八木重吉

 

「ぐさり!と

やってみたし

 

人を殺さば

こころよからん」

(詩集「秋の瞳」より)

 

キリスト教の罪の悔い改めと内省は違う。

罪の悔い改めとはメタノイア(向きを変えること)と呼ばれる。

人間中心の生き方から神中心の生き方に変わること。

具体的には、よく教会で耳にしたのは、

「タバコを吸ってしまいました」

「酒を飲んでしまいました」

「彼女と婚前交渉の罪を犯してしまいました」というどうでもいいことから、

「私は頭のてっぺんから足の先まで罪しか犯せない罪人です」というものだった。

いずれにしても、そこには神に対する恐れと自分に対する責めがある。

だから、祈って赦されたと言っても、何度も何度もまた繰り返し、罪を悔い改めることになる。

そもそも、私たちは、自分中心に生きていない。

いつも、神か人かわからないが、他者の目を気にして、他者中心に生きている。

言い換えれば、支配者に支配されて生きている。

だから、自分の罪を告白して、「赦してください」とか「赦します」とか言って、それは他者中心を強め、支配の中にますます絡め取られるだけである。

「赦すこと」が正解で、「赦さないこと」が不正解ではないのだ。

そういうあれが正解でこれが不正解というところを、内省は降っていく。

そこを降って、内省は深淵の中を照らす。

赦せなければ、それが自分のありのままの姿なのだ。

赦せなければ、赦せないままでいい。

極悪人ならばそれでいい、内省はそういうところに導いてくれる。

冒頭に掲げた、キリスト教詩人の八木重吉の詩は、凡百の罪の悔い改めとは違って、確かに深淵に届いている。

人をぐさりと刺すならば心地いいだろう、そういう自分に気づいている。

けれども、同時に、ここには書かれていないが、そういう自分をクリスチャンとして、悔いただろう、悲しんだろう。

そこがまさに、悔い改めと内省の分岐点である。

内省は、人をぐさりと刺す自分に気づきながら、悔いない、悲しまない、否定しない。

人をぐさりと刺す自分なら、それはそれでいいのだ。

しかし、そのことに気づいたなら、人をぐさりと刺すことはおそらくしないのである。