癒しには、支配者の癒しと無意識さんの癒しがあるのかもしれません。
支配者自身は誰も癒さない。むしろ、傷つけるだけです。
けれど、支配者は、癒しさえも自分の支配のために利用します。
どういうことかというと、人は自分を犠牲にしなければ誰かを癒せない、また逆に、誰かを癒すためには自分を犠牲にする必要があるという考えを、支配者は吹き込んでくるのです。
「私たちの傷は、彼の打ち傷によって癒された」ととある本には書かれているようにです。
病はこの私が病を負って私が病になることで癒され、傷はこの私が同じ傷を受けて癒され、死はこの私がその私を身に受けて癒されることができるという考えです。
例えば、『ナルニア国物語』を書いたC.S.ルイスは、妻が病気になった時、「神様、この病気を私に負わせて、妻を癒してください」というように祈りました。
その結果はというと、ルイスは妻と同じ病気になって亡くなったのです。
こういうことは、数えきれないほどの例があります。そうして、そういう人の癒しのための自己犠牲は美しいものと思われています。
けれど、無意識さんの癒しは全く違うものなのです。
誰であっても、どんな人であっても、その人を癒すリソースは必ず、その人自身の中にあるのです。
癒す人と癒される人がいて、癒される人は癒す人から何か力をもらって癒えるのではないのです。
もちろん、正確に言えば、力をもらうことはあるでしょう。けれど、それは根本的なことではありません。
癒す人は、癒される人のうちにあるリソースを引き出すお手伝いをするに過ぎません。たとえ、力を与えることがあっても、それは呼水に過ぎないのです。
究極的には、癒される人は、自分で自分を癒すのです。癒す力は、外にあるのではなく、自分のうちにあるからです。
不思議なことに、癒す人は、癒される人が自身のリソースを引き出すお手伝いをすると、自分も自分のリソースをさらに引き出すことができて、自分を癒すことになるのです。
そうして、癒される人も自分の中のリソースで自分を癒し、癒す人も自分の中のリソースで自分を癒し、いや、そればかりではなく、そのことが同じ場で起こるので、2人とも自分を癒すことで相手を癒すことになるのです。
このように、無意識さんの癒しは誰を犠牲にすることもなく、次々と癒しが広がっていくのです。もう水が出ないと思われた泉が次から次へと、水を噴き出すようなのです。
もちろん、いいとか悪いとかではなく、人は支配者の癒しと無意識さんの癒しを選ぶことができるのです。
さて、あなたはどちらを選ぶでしょうか?