カウンセリングでも催眠でも、誰かに依存してアドバイスを受けたりエネルギーをもらったりするのではなく、無意識の中にある自分のリソースと能力を見つけることが目的である。
だとすれば、自分のリソースと能力を見つけるだけではなく、それらを活かして用いることが無意識の活性化が向かう目的地ということになる。
難行苦行して、努力に努力を重ねて、自分のリソースと能力を用いるのではない。
それは意識のなすことであり、リソースと能力が花開くどころか、自分を磨耗させるだけである。
そうではなく、無意識に促されて、ありのままの自分の中に眠る宝石の鉱脈たるリソースと能力を無意識に委ねて使っていただくのである。
その時に、出来栄えとか人がどう評価するとかは関係なくなる。
なぜなら、これは自分が意識的にすることではなく、無意識が自分を通して、自分のリソースと能力を開花させることだから。
主語は自分ではなく、無意識なのだから。
「花はなぜということもなく、ただ咲いている」
花を咲かせているのは花ではない、自然に働く無意識の力が花を咲かせるのである。
私たちという花も、無意識の風に吹かれて、花を咲かせるのである。
その時には、なぜということはなく、人が見ていても見ていなくても関係なく、花は花としてただ咲くのである。
どんな創造的なことでもいいのだ、小説や詩を書くこと、演奏をすること、作曲をすること、絵を描くこと、ケーキを作ること…
一見、創造的なことのように見えないことでも、無意識の風に吹かれる時に、それは創造的なことに変わる、掃除をすること、料理を作ること、子どもの送り迎えをすること…
その時、私たちはもはや誰かのコピーではあり得ない、自分が自分に限りなくかえり、私は特別という意味ではないオリジナルになるのだ。