無意識さんとともに

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支配からの卒業〜私が私であるために 7 宗教化の支配

ジャニーズ性被害で、性被害を受けている人たちの告発動画をここのところ見ていました。

知らぬ間に、どうしてもその人たちに自分を同一化してしまうのです。

そうして、メジャーなメディアがこのことを取り上げないことに怒りが湧きます。

それだけでなく、この世界や人間が、罪もない子供たちを搾取し、あるいは搾取の事実の上に利益をあげ、勇気を持って告発しても無視し、そうやって目に見えない殺人をし続けるものだという気持ちに襲われて、頭痛と吐き気を催してしまいます。

そうして、これこそが過酷な唯一の現実なのだという気持ちに陥るのです。

 

そんなぐるぐるの中に巻き込まれて、自分では出てこれそうもない悲劇的な気持ちになった時、心に支配と邪魔の排除をしてもらい、この感情をオリジナルにお返しし、自己催眠で無意識さんと出会い、その中に浸るのです。

 

そうすると、息を吹き返したようになり、視界が急に開けたようになります。

事実が変わるのではなく、事実から目を背けるのでもなく、けれど、事実を取り囲む物語が違うものに書き換えられて、今まで目に入らなかったものが目に入ってくるのです。

そういう子供たちを助けようとした人たちがいること、ジャニーズのファンでありながら署名した人たちがいること、今も違う形で署名がなされていること…など、自分が無力な過小評価していたことが、目に入ってくるのです。

もちろん、そのことがどれだけ影響を与えるかはわかりません。

けれども、世の中も人も、神の子キリストを十字架につけて殺すような、徹底的に愚かで罪深いものなのではなく、愚かさもあれば賢さもあり、醜さもあれば美しさもあるものだと目に映るのです。

 

そして、ああ、自分は宗教化の支配に絡め取られそうになっていたのだと気づきます。

 

宗教化の支配とは、私が勝手に名付けたものですが、宗教でなくても宗教のように働く支配のことです。

 

宗教とは、ルサンチマン(憎悪)の増幅装置であるかもしれません。

怒りは、本来、支配者との絆を断ち切るエネルギーなのですが、支配者に絡め取られてしまうと、この世と人々に対する憎悪に変貌します。

しかし、宗教は美しい名前で引き寄せるのです。

例えば、神は愛であると言います。

神は愛であり、全てのものは神に愛されている。

そうして、このことに夢中になってしまうと、自分の怒りがなくなったように感じます。

けれども、怒りは愛の中に隠れているのです。

神は、ご自身の愛する子を十字架につけて犠牲にするほどまでに、あなた方を愛してくださった。だから、この神を信じて愛するのが当然ではないかと、反転していきます。

だが、そんな神の犠牲的な愛が受け入れられないとどうなるでしょうか?

そこに裁きが現れます。

こんなに愛して下さった神の愛を受け入れなければ、あなた方はもう滅ぶしかないと、そういうことになるわけです。

聖書を見ると、あれほど、「神は愛である」と愛なる神を主張した使徒ヨハネが、聖書の末尾にある黙示録では、神の愛を受け入れなかった世界と人に対する神の怒りと裁きをついには宣言しているのです。

ヨハネ福音書で、姦淫を犯した女性に、「私もあなたを罰しない、安心して行きなさい」と言ったキリストが、

口から刃が出て土の器を砕くように裁く恐ろしい姿として描かれています。

 

裁きで終わる愛は愛ではないのです。

それは、もともと怒りが形を変えたものです。

怒りが、支配者との絆を断ち切るために使われるのではなく、支配者に取り込まれて、怒りによって周りの世界や人を愛という形で変えようとしたのです。

けれど、そんな愛で世界も人も変えることはできず、変わらないことに裏切られ、愛という衣を身につけた怒りは、憎悪へと変貌し、ついには世界と人に滅びの裁きを下すのです。

まさに、宗教とは、ルサンチマンの吸収装置、増幅装置と言ってもいいでしょう。

 

けれど、これは宗教というはっきりした形をとらなくても起こるということを、心は教えてくれます。

私の中にいまだ残る怒り、それを支配者は利用します。

ジャニー氏によって性的に虐待された人たちに、私は同一化します。

それは、普通に言えば、愛と言ってもいいかもしれません。

そうして、この愛が報われることを求めるのですが、状況を見ると、簡単に報われるようには見えません。

それで、支配者は、私の声のふりをして囁きます。

「ほら、見てごらん、この腐った世の中と人たちを。虐待された人たちが勇気を持って告発しても、無視し続け、利用し続け、生き血を吸い続ける。こんな世の中と人たちは滅びてしまってもいいんじゃないか?」

そうして、かえって、憎悪に変貌させて、心との絆を断ち切ろうとさせるのです。

 

これを宗教化の支配と名付けたわけです。

 

もちろん、こんなことをしても、無意識さんとの絆は断ち切ることはできないのです。

なぜなら、無意識の愛は、宗教の愛と違うものだからです。

私たちが信じる、信じないとか、愛に答える、答えないだとか、そんなことで変わるものではないからです。

私が何をしても何をしなくても、私が私に近いよりもさらに近く、私のそばにいてくれるからです。

そして、支配と邪魔の排除をお願いすれば支配と邪魔を排除し、声を聞き、顔と顔を合わせて親しく出会うことができるからです。