私がFAPを10回受けて、難治性鬱から回復したことを聞いて、ある人に言われたことがあります。
「ずいぶん、コスパがいいんですね」
また、私がFAPにせよ、催眠にせよ、レイキにせよ、効果を感じることについても、違う人から言われたこともあります。
「感度がいいんですね」
そうかもしれません。
自分が受ける方ではなく、自分がクライアントにする方になってみると、クライアントのみんながみんな、私のようにはいかないことに気づきます。
どうして、自分がそんなふうに回復したのだろうかと、自分でも不思議に思います。
確かに、感度がいいとは、ひとつの説明になっているかもしれません。
母親によく言われていた言葉を思い出します。
「お前は何でも大袈裟なんだよ」
これは決してプラスの意味で言ったのではありません。
けれど、感度ということで言えば、私はプラスにもマイナスにも針が触れやすいのかもしれません。
あともうひとつ思い当たるのは、私は諦めが悪いということです。
例えば、自分で何とかしようと思った時に、最初に始めたのが、瞑想ですが、
瞑想をして確かにある程度の効果はあったにせよ、瞑想で自分の鬱から完全に回復するというまでの効果は、少なくとも、私にはありませんでした。
瞑想をすると、メタ認知が鍛えられて、自分の状態がどうなのかわかり、動けないと思っていたけれども動けたり、動こうとした時に『これは無理な状態だな』とわかって休んだりできるようになるのですが、それで全て解決というわけにはいきません。
それでも、私は瞑想をすることをやめませんでした。
問題が全て解決するわけでなくても、何かしらの効果を与えてくれるからです。
だから、FAPに出会うまで、私はずっと瞑想を続けていましたし、今も続けています。
そうやって、私はこれがいいと思ったものを、全て解決を与えてくれなくても、瞑想にせよ、FAPにせよ、催眠にせよ、自己催眠にせよ、レイキにせよ、投げ捨てることなく、複合させてずっと使い続けているのです。
本当に、諦めが悪い性分なのかもしれません。
そうして、この前の出来事のように、何かあっても、自己催眠が今できないならレイキを、レイキである程度回復したら自己催眠を、自己催眠でさらに回復したらFAPを、という具合に、時と場合に応じて使って回復していくのです。
もし、コスパがいいとすれば、このあたりにあるのかもしれません。