宇宙は、約137億7000万年前に、ビッグバンが発生してから、今もずっと広がり続けているそうです。
私の心は、発生以来、収縮していたのに、ここにきてそんな宇宙にほだされたのかどうか、動きが反転して、広がり始めているかのような気がします。
渇ききってカラカラに干からびた心に水が注がれて、元のぷるんとした心になり、ふぅーっと息をしているような感じが、体にも伝わってくるようです。
最近は、ここにも書いているように、レイキを始めていて、こんなことを言ってしまうと、いろいろ怒られそうですが、
瞑想も催眠もレイキも同じひとつのことの違う側面のような気がします。
瞑想から見れば、催眠もレイキも一種の瞑想であり、
催眠から見れば、瞑想もレイキも一種の催眠であり(私は、レイキを体の催眠と言っています)、
レイキから見れば、瞑想も催眠も一種のレイキなのかもしれません。
もちろん、そこに違いはあって、その違いがあるためにそれぞれをやっているわけですけれども、その違いも同じひとつのことの違う現れと、そんなふうに感じられてならないのです。
前は、私は、心を収縮させて、『これだけ、これ以外はダメ』と頑な態度をとっていたのですが、
そんな頑なさがハラリと解けてしまって、
気がつけば、宇宙も、自分の心も、広がっていると感じているのです。
何だか、昨日より、呼吸が楽で、心の奥底から何やら楽しげなオルゴールの音色が響いているようです。
もしかしたら、この反転は、昨日の催眠の練習相手の言葉によるものなのかもしれません。
私は、いろいろな人との別離に囚われていたのです。
相手が悪いのか、自分が悪いのか、そんなことに囚われていて、何年も過ぎていくのです。
もしかしたら、自分は気づかないけれども、意識しないうちに言った自分の言葉や行動が、相手に致命的な一撃を与えたのかもしれないと、そんな思いがぐるぐると自分の中で渦を巻いて止まらないのです。
けれど、練習相手の方が言った『人との関係はそんなもの』という言葉が、そんなぐるぐるを停止させたのです。
『人との関係はそんなもの』というのは、その言葉の表面とは裏腹に、何だかとても温かく響きました。
前の日に、また違う練習で見た、無意識さんがいたずらっぽい笑顔を浮かべて、銀色の大きなハサミを持っている姿が浮かびました。
無意識さんは、その銀色のハサミで、私の心臓と誰かの心臓を繋いでいる臍の緒のようなものを、容赦なく、断ち切っていくのです。
それは何だか痛いのですが、痛いのと同時に心地よいのです。
そうして、昨日は何だかとてもよく眠れました。
今日、起きた後、気がついたのは、私の心臓は生き生きと脈打っているということです。
そうして、砂漠がオアシスに変わり、心は新鮮さを取り戻し、宇宙のように、広がり始めたのかもしれません。
何だかうれしくなって、中高の宿題以来、作ったことのない短歌をつくってみたりしました。
雨音に耳を澄ませば
いつの間に
我が心音(こころね)も
鳴り出だしつつ