前に小説を読んでいたら、土を素材にしたフレンチの料理が出てきて、思わず、『わあ、汚い』と思ってしまいました。
土というか、泥というか、それは綺麗なイメージではないんです。
けれど、ある本には、「人は土から生まれ土にかえる」と言われていたりします。
また、アウトドアでキャンプをして、テントを張り、大地の上にシート1枚で横になると、不思議に心身が回復したりします。
心と身体がまだ分かれていないところをじっと感じてみると、何だか、大地というのがピッタリするような気さえしてきます。
そうして、この大地には、死体とか、動物の排泄物とか、あらゆる汚いものが埋まっているのかもしれません。
それらが汚いものだと考えて、掘り出そうとしてもキリがないんです。
私という大地も同じことのような気がします。
自分の中にある、ゾッとするような、気持ち悪い、おぞましいものを掘り出して外に投げ捨てるーそれは、懺悔とか悔い改めとか呼ばれるものかもしれませんが、終わりというものが見えないんです。
そうして、そういうものを発掘すればするほど、私自身がどうしようもないものに思えてしまうんです。
けれど、それらは本当に汚いだけのものなのでしょうか?
私という土地に埋まっている、死体とか排泄物を全部取り出したとして、私は綺麗な存在になれるのでしょうか?
綺麗な存在には、確かになれるかもしれません。
けれど、それでは、私は、もう草一本も生えない痩せた土地になってしまうような気がしてならないんです。
私の中の、死体と排泄物、身の毛が逆立つようなもの、それらは、土の中の微生物に任せたらいいんです。
それらを汚いものに思えても、その汚いものが何を感じているかを私も感じてみたらどうなのでしょう?
汚いものを綺麗なものと無理矢理、思わなくてもいいんです。
それらのものの訴えかけることに耳を澄ませていくと、まるで微生物が死体や排泄物を分解していくように、それらも分解されて土に変わっていくんです。
私の一部にと変化していくんです。
そうして、私は豊かな土地へと移り変わっていくこともあるのかもしれません。
いつかは、そこに、花が一面に咲きいずることもあると、そんなふうに思ってしまうのです。