約束の時間に、坂を上ったところにあるはまっちの家に行った。
かなり心臓がバクバクした。はまっちの親がいないのはわかっていたが、すぐ隣にクラスの女子の伊沢さんの家があったからだ。
辺りを見回してから、インタホーンを押す。
「はーい、入って」
とはまっちの声が聞こえて、ぼくは玄関の装飾されたドアを開ける。
冷たい風が流れ込んできた。ぼくはちょっと身をブルッと震わせた。ピカピカに磨き上げられた廊下、もちろんちりひとつ落ちていない。ダイニングへ続くドアを開けると、ここもキレイすぎるぐらいきれいで何だか病院みたいだ。ムダなものが何一つない。ちらっとはまっちの父親の顔が浮かんだ。
けれども、そこには見たことのないような笑顔を浮かべたはまっちがひまわりでいっぱいの柄の黄色いエプロンをまとって立っていた。たちまち、心が温かくなる。ちょっと浅黒いはまっちは、この北極みたいな家でまるで南国少女のようだ。
「今日は期待してよ」
「そのエプロン似合ってるね」
「でしょ、こないだ花岡さんと買いに行ったの」
「もしかして今日のために」
「…」
はまっちは赤くなった。
「ちょっと、ゴッホみたいだけどね」
「花ちゃんもそう言ってた」
『花ちゃんって呼んでるんだ』、ぼくは何だか心がぎゅっと縮んだような気がした。
「わたしの部屋で待ってて、すぐできるから」
はまっちはぼくにおいでおいでしてくる。ぼくははまっちの後について、さらにドアをくぐり、廊下をちょっと進んだ右手の部屋に入った。
部屋に入ると、はまっちの匂いがする。
そうして見渡すと、ぼくが想像していたのとは違っていた。ピンクの花柄のカーテン、同じくピンクの花柄のベッドシーツに覆われたベッド、棚にはぬいぐるみが並んでいて、床には薄茶の毛の長いカーペットが敷かれている。いわゆる女の子の部屋だ。
「何だか、はまっちのイメージと違うなあ」
「そうよね、親が勝手に選んだものばかりだから」
さらによく見ると、青色の本箱があって、そこにはヘッセの「車輪の下」やゴールズワージーの「林檎の木の下で」なんかが入っていた。
「ここははまっちの趣味?」
「そうね、そこだけ、そしてこのエプロンだけ」
甘いような苦しいような気持ちが喉に込み上げてきたが、それを呑み込んで言った。
「図書室でも、ハイネを読んでいたものね」
「秘密でしょ」
そうだった、でもその後のぼくたちの秘密からすると、もうそれは大した秘密に感じられなくなっていた。
ぼくは、不思議の国のアリスのお茶会をあしらったテーブルクロスを広げたローテーブルのところに座らせられた。
『これははまっちの趣味?』と尋ねようとしたが、はまっちは「用意してくるね」と言って部屋を出て行った。
チェシャ猫がぼくの方を見て例の笑みを浮かべていた。