無意識さんとともに

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完全主義

いつも、細かいことが気になって何もやり遂げることができなかった。いや、人から見たらもう十分やったと見えるのかもしれない、けれども自分には『もう、これで十分』という感じを持てなかった。

思い出すのは、美術の課題。

中学の時に、木彫りの写真立てを作った。木の板を四角く切り抜いて、その周りを彫ってレリーフにしていく。

私は、いくら彫ってもいくら彫っても満足できなくて、ついには鎌倉彫りのようになってしまったことを覚えている。

それは僥倖にもとても褒められて、味をしめたのか、私は、高校の美術の時に、丸太を渡されて、彫刻を彫る課題を与えられた時、頭の中によぎったのは、漱石夢十夜弥勒菩薩像の神秘的なアルカイックスマイル。

私も、木の塊から弥勒菩薩のアルカイックスマイルを救い出そうと彫ったが、弥勒菩薩はいつまで経っても現れることなく、ついにはあれほど大きかった丸太は、どんどん小さくなり、最後には、弥勒菩薩のアルカイックスマイルとは似ても似つかぬ5センチほどの泣き笑いをしたような顔が浮かび上がるばかりだった。

完全主義は意識のわざであり、それは何かの終わりを目指す。頂点へと修行僧のような努力はかっこいいが、それは死への努力である。なぜなら、頂点に達したら、ゴールを迎えたら、もうそこで全てが終わるからである。満足はするかもしれないが、死の満足なのである。

無意識は、完全を目指さない。無意識は限りない命であり、川のように流れ続けて止まるところを知らない。絶えず、変化していく。無意識の生み出すものはいつも未完成であり、生きて動いているのである。だからこそ、美しいのだ。