人の心を探ることほど、やめられない快楽はない。
噂話、ゴシップ、悪口からはじまって、宗教、スピリチュアル、心理学、催眠まで、人の心を探って、マウンティングを得ようという試みに満ちている。
ええ、もちろん、そんなことをあらわにいう人はいない。
いわく、「相手の人を救ってあげたい」と。
しかし、人が人を救ってあげるということほど、究極のマウンティングはない。
けれど、これだけは変わらないことがあるとすれば次のそれである。
「人の心はわからない、自分の心さえわからない」
このことを踏み越えた時、それにどんな高尚な名前がついていたとしても、それは支配者の支配である。
いったい、人の心を直接、知ることができようか?
「心に聞く」、脳のネットワーク…他の何であっても、私たちは他人の心を直接知ることなどあり得ない。
では、まるで誰かが誰かの心をあたかも、直接、知っているかのようなことが起こるのか?
それは、ただただ、自分の深淵を、自分の破壊欲動と性欲動を知ることによってのみである。
心との間にある邪魔と支配を排除して(ちなみに、邪魔と支配が永久的に全くなくなった人間などいない。瞬間的にないことはあっても。イエスやブッダでさえ、生涯繰り返し試みるものはやってきたと書いてある。邪魔と支配を脱したと思ったら、それは支配者の欺きである)、それから見るのは、他人の内面ではなく、他人の深淵でもなく、他人の支配でもなく、ただ、自分の深淵、破壊欲動と性欲動である。
そうやって、自分の深淵を見る時、破壊欲動と性欲動を知って心痛む時に、そのことを通してのみ、相手も自分と同じように深淵を持つ人間なので同じ構造を持っているから、あたかも自分の深淵を通してのみ、相手を知っているかのように見えるのである。
そうはあっても、それは自分の深淵を通した一種の推測のようなもので、決して直接に相手の心を知ることではない。
そうして、人は自分を深淵を知っている範囲と深さでのみ、間接的に他人の心を推測できるのだから、自分の深淵を究め尽くさない限り(そんな人がいったいどこにいようか?)、相手の心を自分の知っている深淵のレンズの範囲と深さでのみ、朧げに知るだけなのだ。