自分の心にぽっかり穴が開いていて、何を入れても埋まらない。
自分だけでは足りないそんな感覚がずっとあった。
それで、宗教、占い、スピリチュアル、オカルト…とその穴を埋めようとしたが、埋まらない。果ては、恋愛対象さえ、その穴を埋めるためのものだったかもしれない。
プラトンに、男女の神話がある。
男女はもともとひとつで完全なものだったが、二つに分かれてしまった。それで不完全になりお互いがお互いを求めるのだと言う。
創世記にもある。
イブはアダムのあばら骨から創られた。それで、アダムはイブに出会った時、「これぞ、私の骨からの骨、肉からの肉」と言ったと。
ユングは、それを相補性という言葉で表現した。そして、「危険なメソッド」という映画を見ると、ユングは女性を自分を補って完全なものにしてくれるものとして、追い求めたように感じられる。
スピリチュアルでいう、ソウルメイトとかツインソウルとかも同じようなものだと思う。
けれど、相手を自分を自己実現してくれるものとしてみる見方は、共依存に繋がりやすい。
そもそも、本当に、私は私だけでは足りないと、心に穴が開いているという感覚は本当なのだろうか?
私は、宗教、占い、スピリチュアル、オカルト、恋愛相手、なんでもいいが、自分に何かをプラスしなければやっていけないのだろうか?
そうではないと無意識さんは教えてくれる。
むしろ、私は自分だけでは足りないと思って、たくさんのものを握ってしまっているからやっていけないのだと。
それらのものを手放して、いろいろなものをマイナスして、ただ、私と無意識さんだけになった時、私は私にとってありあまるほどの無尽蔵の宝を持っていることを知るのである。
開いていた穴は、深淵は、自分が足りないという証、埋めなくてはならないものではなくて、むしろ、無意識さんと繋がるためのトンネルだったと知るのである。
無意識さんは、宗教や占いやスピリチュアルやオカルトや恋愛相手とは、決定的に違う。
何が違うかというと、無意識さんは本来の私であって、私以外のものではないからである。
無意識さんを知る時、私は私以外のものを心の穴を埋めるために求めることは止む。
無意識さんは一回飲めばまた渇いてしまうようなコップの中の水ではなく、私の中で限りなく溢れる活ける泉だからである。
私は私自身に満足し、全ての支配の鎖から解き放たれる。